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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 藤村幸男さん―助け呼ぶ声 何もできず

藤村幸男(ふじむら・ゆきお)さん(84)=広島市安佐南区

放射線の怖さ伝えたい。地球の未来のため

 藤村幸男さん(84)は17歳だった「あの日」、東観音町(現西区、爆心地から約1・3キロ)で自宅の下敷(したじ)きになり、意識を失いました。「熱い」。気付いた時、家は燃え始めていました。必死でもがき、20センチ四方の隙間(すきま)を見つけました。働(はたら)き詰(づ)めで十分食べられなかったため体重は40キロ前後。細い体が幸いし、抜(ぬ)け出すことができました。

 4人兄弟の長男。父米吉(よねきち)さんが仕事中のけがで働けなくなり、旧制山陽中(現山陽高)を退学、昼間は家計を支えるために運送店で働き、夜間は定時制の青年学校へ通いました。

 1945年になると、広島市二葉の里(現東区)にあった第二総軍司令部の防空壕(ごう)を掘る作業に駆(か)り出されました。8月6日は体調が悪く、休まざるを得ませんでした。

 自宅で横になっていると、突然(とつぜん)「ピカッ」と光り、生暖かい風が入ってきました。直後に「ドッカーン」と大音響(だいおんきょう)。体が跳(は)ね上がり、柱や瓦(かわら)が落ちて気絶しました。

 家から抜け出した後、方々で「助けて」と悲鳴のような声が聞こえました。姿は見えません。藤村さん自身も頭から血を流し、全身傷だらけ。どうすることもできませんでした。

 近くの牧場に3日間避難。自宅があった辺りに戻ると、多くの白骨がありました。「助けられなくてすみません。許してください」。そっと手を合わせました。

 4日後、地域の避難(ひなん)場所だった地御前(現廿日市市)で家族と再会しました。「生きとったか。幸男、よかったのぉ」。母秀(ひで)さんは涙(なみだ)を流して喜んでくれました。

 あの日は、父母と弟2人も自宅にいました。藤村さんを呼んでも返事がなく、火災で、その場を離(はな)れたそうです。当時国民学校3年の弟寛造(かんぞう)さんは体中をガラスで切り、翌7日に亡くなっていました。

 20日ほどして自宅の焼(や)け跡(あと)に戻って小屋を建て、約1年暮らしました。冬は隙間だらけの部屋で家族が身を寄せ合い、寒さをしのぎました。父は被爆前にできた傷口からうじがわき、46年4月に亡くなりました。

 藤村さんはNTTの前身、電電公社に勤務。退職後、60歳ごろから首の骨が曲がる病気になり、今は車いす生活です。原因ははっきりしませんが、藤村さんは原爆の影響だと考えています。

 子どもたちに放射線の怖(こわ)さを伝えたい―。福島第1原発事故の後、思いは強くなりました。「地球の未来のため、核兵器(かくへいき)も原発もなくさないといけない。そのために若い人が力を合わせてほしい」と力を込(こ)めます。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

第二総軍司令部

軍都機能 さらに強く

 米軍による沖縄上陸や各地への空襲(くうしゅう)など戦況(せんきょう)が悪化する中、当時の陸軍は1945年4月、「本土決戦」に備えて、広島市二葉の里(現東区)に西日本を統括(とうかつ)する第二総軍司令部を設けました。

 東日本をまとめる第一総軍司令部は、東京に置きました。「日本が東西に分断されても戦える措置(そち)」(「広島県戦災史」1988年刊)でした。

 広島は、「軍都」として発展してきました。日清戦争(1894~95年)では、戦争を指揮する「大本営」が、広島城跡に設けられました。宇品港(現南区)は、戦地へ兵士を送り出す拠点(きょてん)にもなりました。

 第二総軍司令部の設置により、広島は軍都としての役割をさらに強めたのです。

 司令部は、爆心地から約1・8キロの所にあり、原爆で建物が全焼するなど大きな被害(ひがい)が出ました。

◆私たち10代の感想◆

脱原発 訴えに説得力

 「脱原発(だつげんぱつ)」の必要性を繰(く)り返(かえ)していた藤村さん。原爆でつらい体験をした上での意見は説得力がありました。「核廃絶(かくはいぜつ)のために、世界の若者が団結してほしい」というメッセージも受け取りました。まずは、広島で学んだ放射線の怖(こわ)さを、世界の人に伝えていくことから始めたいです。(高2・井口優香)

核廃絶に向けて団結

 藤村さんは、米国やロシアが周囲に力を示すために核兵器(かくへいき)を保有しているのはおかしい、と訴(うった)えていました。核を持つ愚(おろ)かさを伝えていかなければならない、という強い思いを感じ取りました。地球の未来を守るため、僕たち10代が核廃絶に向けて団結したいです。(中2・松尾敢太郎)

◆編集部より◆

 藤村さんが徴用されていた第二総軍司令部では、朝鮮李王朝の李鍝(イ・ウ)公が教育参謀をしていました。旧日本軍の軍人として、広島で被爆死した人物です。

 李鍝公は、日本が韓国を併合した2年後の1912年に生まれ、日本政府の意向で来日。陸軍士官学校を卒業し、広島に来たそうです。お付きの武官だった吉成弘中佐は責任を感じ、後を追って自殺しました。

 平和記念公園(広島市中区)の韓国人原爆慰霊碑にも、李鍝公の名前が刻まれています。広島には、日本の植民地だった朝鮮半島から多くの人が移り住んだり、徴用、徴兵されたりして被爆しました。その歴史にあらためて目を向け、アジアの平和を考えるきっかけにしてほしいと思います。(増田)

(2012年5月28日朝刊掲載)

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