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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 藤岡小夜子さん―長女との思い出 6ヵ月

藤岡小夜子(ふじおか・さよこ)さん(89)=広島市西区

ハワイから帰国、結婚。戦後は国際交流に力

 米国ハワイで生まれ育ち、14歳で父の古里である広島に来た藤岡(旧姓森久保(もりくぼ))小夜子さん(89)。22歳の時、広島市千田町1丁目(現中区、爆心地から約1・5キロ)で被爆し、わずか6カ月だった長女の重子ちゃんを亡くしました。「原爆を落とされたのは、悔(くや)しいのは悔しいけど、どうにもならない。国の方針だから」と話します。

 来日は、ハワイ移民で服の仕立てをしていた父の「(日本に)帰って勉強しなさい」との強い希望でした。現地の中学校を卒業後、1937年3月、客船大洋丸で半月かけて日本に来ました。広島では安田高等女学校の2年に編入。高等科まで進みました。

 ハワイで現地の学校に加えて日本語学校に通っていたため、日本語には不自由しませんでした。ただ、「男の子と遊んじゃいけん、というのにはびっくりした」と言います。

 卒業後の41年11月に19歳で結婚(けっこん)。父に結婚写真を送ろうとしましたが、運んでいた大洋丸が米国の攻撃を受けて沈没(ちんぼつ)し、届きませんでした。

 父と離(はな)れたまま迎(むか)えた45年8月6日午前8時15分、藤岡さんは、義母や義姉、めい、義弟、長男、長女の7人で千田町の家にいました。朝食を取っていたところで、長女の重子ちゃんは庭でトウのベッドに寝(ね)ていました。夫は、宇品町(現南区)の陸軍糧秣支廠(りくぐんりょうまつししょう)(現広島市郷土資料館)に出勤していました。

 原爆の投下で、雷のような光とともに家の天井(てんじょう)が落ちてきました。国民学校1年で登校中だったもう1人のめいも戻ってきて、8人で逃(に)げました。千田地区と吉島地区(現中区)を結ぶ木造の南大橋は、渡(わた)り終えた途端(とたん)、焼け落ちました。

 その夜は吉島にあった飛行場で過ごしました。翌日、3本の川を歩いて渡り、古江(ふるえ)(現西区)にあった父の実家に行きました。

 原爆投下と戦後の混乱の中、重子ちゃんは被爆約1カ月後の9月7日、乳をいっぱい吐(は)いて亡くなりました。医者もおらず、具合が悪いことも分かりませんでした。「あの子の写真もない、服もない、何もない…」と藤岡さんは言葉を詰(つ)まらせます。

 戦後は育児や家事をしながら茶道に励み、ことし3月まで指導していました。英語力を生かして、広島に住む外国人向けの茶道教室を開催(かいさい)。米国やドイツ、フランス、中国などに行き、茶道を介(かい)した国際交流にも力を入れてきました。「全ての国と仲良くすること。偏見(へんけん)を持たないで」と、若い人たちに呼(よ)び掛(か)けます。(二井理江)


◆学ぼうヒロシマ◆

ハワイ移民

7割が広島・山口県民

 日本からハワイへの移民は、1885年に始まりました。サトウキビ農場で働いてほしいというハワイ国王の申し出を受けたからです。

 広島県や山口県は、積極的に移民を勧(すす)めました。沿岸部を中心に人口が増えていたことや不況(ふきょう)のため、ハワイで働いた仕送りで生活を豊かにできる、と考えたからです。もともと国内各地へ出稼(でかせ)ぎに行く風土だったこともあり、多くの人がハワイへ行きました。

 政府が移民を奨励(しょうれい)した85~94年に、日本から移民した約2万9千人のうち、広島県からが38%で全国トップ。次は36%の山口県でした。

 米国への移民は1924年に法律で禁止されるまで続きました。20年には、ハワイの人口約25万6千人のうち4割以上を日本人が占(し)めていました。

 第2次世界大戦が始まると、ハワイでは、教師や記者などの主だった日本人が収容所に入れられました。日系2世の青年は部隊を編成。ヨーロッパ戦線に立ちました。

◆私たち10代の感想◆

「偏見なくして」 響く

 「全ての国と仲良くすること。偏見(へんけん)をなくしてほしい」。藤岡さんは、私たちに教えてくれました。

 被爆による苦難を乗(の)り越(こ)え、戦後、茶道で世界を巡った藤岡さん。グローバルでアクティブな女性がいたこと自体に感動しました。とても力強い話だったです。私も藤岡さんみたいになりたいです。(高1・佐々木玲奈)

家族が一つの世界に

 戦争が始まり、ハワイにいた父とは敵、味方に分かれてしまった藤岡さん。それでも、父を気遣(きづか)ってきたのは愛していたからだと思います。

 現在、日本では、政党内や政党間の争いばかりが目立ちます。そんなことより、戦争で家族が離れ離れにならないような世界にする努力をするべきです。(中3・河野新大)

◆編集部より◆

 ハワイでは、グローリア(Gloria)と呼ばれていた藤岡さん。本当は日本に来るのは嫌でしたが、父の強い勧めで来日しました。当時、ハワイへの移民が子どもを日本に帰して学校に通わせるのは、移民として成功した証でした。

 戦時中、父は、後妻の息子が2世部隊に入っていたおかげで、収容所に送られることはありませんでした。藤岡さんとは手紙のやり取りはできました。

 ハワイで育ったため、結婚すると義母と暮らす、といった習慣を一切知らなかった藤岡さん。釜でご飯を炊く方法も分からなかった、といいます。ハワイに生まれ育ちながら、日本社会に合わせて生きていく、という大変さを抱えていたのです。

 今回、初めて被爆体験を語ったのは、孫やひ孫のために本を書こうとしている中、きちんと語ろうと考えたのがきっかけでした。今も、子ども3人、孫6人、ひ孫6人の誕生日には、欠かさずバースデーカードを送るほど仲良しです。(二井)

(2012年7月10日朝刊掲載)

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