×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 佐川修さん―全身やけどの母 鮮明に

佐川修(さがわ・おさむ)さん(73)=広島市東区

失明しながらも家族の元へ帰ってきた

 被爆当時6歳だった佐川修さん(73)は、38歳だった母政子さんを原爆に奪(うば)われました。「抱(だ)きつきたくても抱きつけない状態。本当にむごかった」。あの日、全身に大やけどを負いながら、家族の元へ戻ってきた母の姿を今も鮮明(せんめい)に覚えています。

 1945年8月6日、舟入国民学校(現広島市中区の舟入小)の1年だった佐川さんは、爆心地から2キロ余の学校で被爆しました。校庭で教頭の話を聞きながら空を眺(なが)めていると、飛行機を発見。シャーという強い光を浴び、「退避(たいひ)!」という先生の大声で、すぐ地面に伏(ふ)せました。

 幸い、けがはなく、点呼の後、泣きながら舟入川口町(現中区)の自宅まで戻りました。留守番をしていた長姉と妹も、泣きながら待っていました。

 あの朝、母は爆心地近くの雑魚場(ざこば)町(現中区)に建物疎開(そかい)の作業へ出かけていました。中国・上海で製針業を営んでいた父は広島に一時帰国していて、早朝から、横川(現西区)方面に出かけていました。

 佐川さんたち3人が自宅の外で待っていると、母が戻ってきました。衣服は焼け落ち、ベルトだけが残っていました。全身が真っ黒に焼け、皮膚(ひふ)が両手からぶら下がっていました。頭の皮は、髪(かみ)の毛が付いたまま後ろから前に垂れ下がっていました。

 かろうじて話すことができた母は、目が見えないので、周りの人に自宅の場所を聞きながら戻ってきた、と教えてくれました。

 しばらくして帰って来た父が、母を治療に連れて行きました。しかし油を塗(ぬ)ってもらっただけで帰ってきました。自宅は火災で燃え、近所に住む父の友人宅で数週間、過ごしました。

 佐川さんは、母の体にわいたうじを箸で取ってあげました。「ありがとうね」。そう言ってにっこり笑ってくれた母は8月12日、息を引き取りました。

 その年の秋、父が自宅の焼け跡にバラックを建てました。翌年には製針工場を再開させ、佐川さんやきょうだいを育てました。

 結婚し、2人の娘と4人の孫に恵(めぐ)まれた佐川さん。数年前、脳梗塞(こうそく)と心筋梗塞を患(わずら)いました。「最後のチャンスではないか」。孫たちに被爆体験を伝え、残そうと、昨年9月、初めて手記を書きました。

 「戦争は絶対にしたらいけない。世界中の子どもたちが交流し、互(たが)いを信頼(しんらい)し合うことから始めてほしい」。そんな思いを託(たく)します。(増田咲子)


◆学ぼうヒロシマ◆

雑魚場町

建物疎開 大勢犠牲に

 雑魚場(ざこば)町は、現在の広島市中区国泰寺町1、2丁目と小町の辺り。1965年に今の住居表示が実施されるまで、ありました。

 被爆当時、西隣の国泰寺町に広島市役所がありました。市役所は空襲(くうしゅう)などの際、避難(ひなん)や救護を指示するなど重要な役割がありました。空襲で市役所に火が移るのを防ぐため、周囲の建物を壊(こわ)す「建物疎開(そかい)」が行われていました。

 地域や職場、学校から動員された人々が大勢犠牲(ぎせい)になりました。原爆資料館(中区)が2004年に開いた企画(きかく)展によると、そこで作業していた国民学校や中学校など12校の2331人の約75%に当たる1749人が亡くなったそうです。  国泰寺町1丁目には疎開地跡の碑や、亡くなった女学生らを悼む慰霊碑があります。町内会が毎年8月6日に慰霊祭を営んでいます。雑魚場町で生まれ育ち、碑の清掃(せいそう)を続けている木谷恭子さん(88)は「ここらで、ようけえ亡くなられた。その事実を風化させてはいけない」と話します。

◆私たち10代の感想◆

母親の話 心打たれた

 大やけどを負い、目が見えなくなりながらも、家族の元へ戻ってきた佐川さんの母親の話に心を打たれました。佐川さんは「自分たちが大きなけがをしなかったのは、お母さんが代わりに全て引き受けてくれたから」と話していました。大切な人を一瞬(いっしゅん)で奪(うば)う原爆は必要ないと、あらためて感じました。(高2・井上奏菜)

力強さを見習いたい

 「国同士が憎み合っても意味がない。互(たが)いを信頼(しんらい)し、仲良くすることが大切だ」という言葉が印象に残っています。世界中の人がこのような考えを持てば、世界は平和になると思います。原爆で生活が大きく変わり、母を亡くしても力強く生きてきた佐川さん。困難に負けない強さを見習いたいです。(高3・熊谷香奈)

◆編集部より◆

 被爆前日の8月5日、佐川さん家族は、学童疎開していた次兄と2人の姉を訪ね、福(ふく)木(ぎ)村(現広島市東区)へ行きました。兄や姉は、歌や踊りを披露してくれました。それが最後の家族だんらんになろうとは、思いもよらなかったでしょう。

 翌朝、佐川さんの母は、建物疎開作業に行けなくなった近所の人の代わりに、作業に出ました。そして、午前8時15分、爆心地から約1キロの地点で被爆したのです。

 母は全身やけどで目が見えなくなりながらも、自宅まで必死で戻って来ました。

「修!」と、佐川さんたちわが子の名前を泣き叫んでいたそうです。母の強さと、家族への愛情の深さを思い、言葉を失いました。(増田)

(2012年8月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ