×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 新見博三さん―血に染まった母 見えた

新見博三(にいみ・ひろそう)さん(73)=広島市中区

「逃げなさい」。崩れた自宅の下から叫び

 「ひろちゃん、早く逃(に)げなさい」。被爆直後、自宅(じたく)の下敷(したじ)きになった母親は、新見博三さん(73)に向かって叫(さけ)びました。隙間(すきま)から見えた母の顔が血で真っ赤に染(そ)まっていたのを、新見さんは鮮明(せんめい)に覚えています。

 あの日、6歳だった新見さんは爆心地から約1・7キロの平野町(現広島市中区)の自宅にいました。患(わずら)っていた右目を診(み)てもらうため、着替(きが)えて病院へ行こうとした時でした。

 午前8時15分。光も爆音(ばくおん)も記憶にありません。気付いた時は、吹(ふ)き飛(と)ばされて庭にいました。体にガラスが刺(さ)さり、やけどや切(き)り傷(きず)もありました。母を助けたかったのですが、一緒(いっしょ)に住んでいた叔父(おじ)に促(うなが)され、叔母(おば)や、いとこと逃げました。

 人の流れに沿(そ)って、宇品(現南区)の神社まで避難(ひなん)。途中(とちゅう)の道は、黒焦(こ)げや血だらけになって亡(な)くなった人でいっぱいでした。

 何日かして遺体(いたい)の処理に行く兵士に、自宅から約1キロの所まで連れて行ってもらいました。近所の人から「母を見た」と聞き、焼け死んだと思っていた母が生きているのではないかと、希望が湧(わ)きました。

 家に戻(もど)ると、焼け跡(あと)の瓦(かわら)に、岡山に出張に行って無事だった父の伝言がありました。近くの千田国民学校(現千田小、中区)にいる、という内容でした。

 翌日(よくじつ)だったでしょうか、学校の近くで父や兄と再会。その後、母とも会えました。けがで顔に布を巻(ま)いていましたが、体形や声で母だと分かりました。母は、新見さんを抱(だ)きしめてくれました。新見さんにとって人生で最もうれしい瞬間(しゅんかん)でした。母は、自宅にいた叔父や通り掛かった人に助け出されたそうです。

 被爆後は苦労しました。今では食べられることのない鉄道草(ヒメムカシヨモギ)を食べたり、遺体が転がっている川で魚や貝をとったりもしました。

 その後、国家公務員になり、広島大や神戸大、山口大などで職員として働きました。結婚(けっこん)して、1966年には長男が誕生(たんじょう)。がんが見つかりましたが、すぐに治療し、健康に不安を抱えながら今も暮らしています。新見さん自身、二つのがんと闘っています。

 「生かされた被爆者として原爆の悲惨(ひさん)さを伝えたい」。2008年、原爆資料館(中区)を案内するヒロシマ・ピース・ボランティアになりました。09年には、世界を一周しながら被爆証言をする、非政府組織(NGO)ピースボートの旅に参加。各地で、広島を訪(おとず)れるよう呼(よ)び掛けました。

 「ヒロシマを知り、平和のために何ができるかを考え、行動してほしい。ひとごとではなく、あなたたちのためでもある」。そう語(かた)り掛けます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ◆

ヒロシマ・ピース・ボランティア

資料館や公園を案内

 ヒロシマ・ピース・ボランティアは、広島市中区の原爆資料館や平和記念公園を無料で案内しています。資料館を運営する広島平和文化センターが1999年、被爆(ひばく)の実態を継承(けいしょう)する取り組みとして、登録制度を新設しました。

 18歳以上で、月2回以上活動できることなどが条件。研修を受けるとボランティアになれます。4月1日現在、21~85歳の197人が登録。毎日10~15人が活動しています。英語、中国語、手話での案内もしています。

 5年目の小川慶子(けいこ)さん(65)=廿日市市=は、資料館内で小中高生を見ると、話し掛けて原爆で親を亡(な)くした子どものことを説明します。「自分に置(お)き換(か)えると、真剣(しんけん)な表情に変わる。当たり前の平和がいかに大切かを伝えたい」と話します。

 ボランティアは、冬は緑のジャンパー、夏は緑のポロシャツを着ています。見掛けたら、原爆について教えてもらいましょう。案内の事前予約もできます。

◆私たち10代の感想◆

できること 考えたい

 原爆が投下された後、まだ遺体(いたい)が転がっている川で貝や魚をとり、遠く離(はな)れた場所まで歩いて食料をもらいに行った話が印象的でした。

 「ヒロシマを知ることが大事だ」と繰(く)り返(かえ)し強調する新見さん。復興に努力した人々の気持ちを理解し、平和のためにできることを考えたいです。(中2・松尾敢太郎)

涙を流し語る姿 衝撃

 死体でいっぱいになった道を逃げたことなどを話しながら、涙(なみだ)が止まらなくなる新見さんの姿(すがた)に衝撃(しょうげき)を受けました。

 こんなにつらい体験を、病と闘(たたか)いながら、世界一周の船に乗って人々に伝えてきたことにも感動しました。原爆の恐(おそ)ろしさや悲惨(ひさん)さを、今度は僕たちが伝えていきます。(高2・西崎一成)

◆編集部より

 猛暑厳しい8月、新見さんに証言の取材をしようと電話すると、もうすぐ入院するとのこと。「大丈夫だろうか」。不安がよぎりました。しかし、がんの手術を終えて退院した後、すぐに今回、取材に応じてくれました。

 病気と闘いながらも、生かされた者としての使命感から、体験を語ってきた新見さん。10代の若者には、「平和とは何かを考えてほしい。当たり前の日常を否定することから始めてみよう」と繰り返していました。

 被爆者の平均年齢は78歳を超えました。被爆者に寄り添い、しっかりと耳を傾けなければいけません。残された時間はそう長くありません。(増田)

(2012年11月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ