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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 三浦功さん―ぺしゃんこの街に衝撃

三浦功(みうら・いさお)さん(86)=広島市中区

入市被爆。弟は15年後に死亡。親戚も次々と

 広島に原爆が落とされた4日後の1945年8月10日。学徒動員先の兵庫県尼崎(あまがさき)市から戻った三浦功さん(86)の目に入ってきた広島は「全てがぺっしゃんこだった」。これまで経験した、名古屋や大阪での焼夷弾(しょういだん)による空襲(くうしゅう)の焼け跡とは全く違っていたのです。

 44年3月、17歳の時に卒業した修道中では山岳部(さんがくぶ)に所属していました。戦時中のため普通(ふつう)に登山することは許されませんでしたが、「鍛錬(たんれん)のため」と、制服を着て広島県内各地の山に登っていました。

 授業でも「教練(きょうれん)」として、鉄砲(てっぽう)の撃(う)ち方を習ったり、石を入れた重いリュックと鉄砲を持って40キロ以上歩いたりしました。言いたいことがあっても、自由には言えない時代でした。

 卒業後、名古屋薬学専門学校(現名古屋市立大)に進学。2年になった45年春からは、大阪の製薬会社の尼崎工場に動員されていました。そこでは、化学兵器の一つ、マスタードガスの原料を作っていたそうです。

 家族は45年春、三浦さんが幼少期から暮らしてきた広島市富士見町(現中区、爆心地から約900メートル)から広島県中野村(現安芸区)に疎開(そかい)しました。そのため、直接被爆は免(まぬが)れました。しかし、富士見町の家に入居していた、父の山仲間だった伊藤胖(ゆたか)さんの一家4人は家で被爆して亡くなりました。

 原爆投下後に広島に戻ってきて、自宅跡(あと)に立った三浦さん。通常の空襲の焼け跡のような、柱など家屋の燃え残りはなく、真っ平ら。焦(こ)げた臭いより死臭がひどかったのを覚えています。井口村(現西区)の親戚(しんせき)宅まで避難(ひなん)して亡くなった胖さんを除く、胖さんの妻と子ども1人の骨は、三浦さんや母の勝子さんが拾いました。もう1人の子どもの骨は、今も見つかっていません。

 三浦さんの5歳下の弟、惇(あつし)さんは原爆投下の2日後の8日、富士見町の家を見に行きました。15年後の60年6月、亜急性(あきゅうせい)骨髄性(こつずいせい)白血病で死亡。その後も、入市被爆した親戚が次々に亡くなりました。「15年もたっているのに」と三浦さんは驚きました。

 「放射線を受けているのは分かっているから」と健康管理に気を使っている三浦さん。間食をせず、食事にも気を配っています。

 若い世代には「戦前戦中のことを学んでほしい」と訴(うった)えます。物価を上げて景気を良くする一方、憲法改正や軍事力強化構想を持つ現在の政府。三浦さんの目には「戦前の日本と似ている」と映ります。「戦争は皆(みな)がつらい思いをする。いかにつまらんもんかを知ってほしい」と強調しています。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

焼夷弾

空襲で木造家屋焼く

 原爆投下の候補地だった広島には戦時中、空襲(くうしゅう)は、ほとんどありませんでした。しかし、東京や大阪だけではなく、福山、呉、徳山など多くの都市は、無差別爆撃(ばくげき)を受け、多くの市民が犠牲になりました。

 空襲で頻繁(ひんぱん)に使われたのが、M69子弾(しだん)という焼夷弾(しょういだん)です。木造が多い日本の家を焼(や)き払(はら)うために開発されました。

 M69は長さ約50センチ、直径約7センチ、重さ2・8キロの六角形。中には、ナパームというゼリー状の油脂(ゆし)ガソリンが入っていました。端(はし)に火薬が入っていて、屋根や地面に当たった衝撃(しょうげき)で発火し、燃え広がる仕組みです。

 落ちる速度を抑(おさ)えつつ、火薬部分がちゃんと下を向くよう、反対側の端には長さ約1メートルの布が4本付けられていました。

 M69は38発ごとにまとめられ、米軍の爆撃機B29から投下されたのです。

 1945年8月1日夜に空襲を受けた新潟県長岡市では、今でも地面を掘(ほ)ると、焼夷弾が出てくるそうです。

◆私たち10代の感想◆

戦中の生活伝えたい

 戦時中は食べ物が少なく、配給制で人々は食糧難(しょくりょうなん)に苦(くる)しんでいました。今は戦争もなく、物も豊富にありますが、三浦さんは、今の日本の政策は開戦直前に似ていると言います。

 平和に関心のない人にも興味を持ってもらうために、被爆者から聞いた戦時中の暮らしぶりを語り、戦争の恐(おそ)ろしさを伝えたいです。(中3・岩田壮)

心身疲弊させる戦争

 三浦さんは、何度も空襲(くうしゅう)に遭いました。空襲警報がよく鳴り、昼も夜もない。焼夷弾(しょういだん)から飛び散った油で顔に火が付き、腕(うで)でぬぐおうとすると、燃え広がる状況(じょうきょう)。目の前で同級生が焼け死にました。戦争は人の体と心を疲弊(ひへい)させます。戦争の怖(こわ)さ、恐(おそ)ろしさを伝え、二度と起こさせないようにしたいです。(高2・寺西紗綾)

◆編集部より

 三浦さんが被爆者健康手帳を申請したのは2011年12月、取得は12年6月でした。それまで大きな病気をしていなかったのもありますが、自ら被爆者運動をしていなかった、という後ろめたさがあったからでした。運動しなかったのに、手帳をもらえるようになったからもらう、というのは気が引けたのだそうです。また、家族以外に被爆体験を語ったのは、今回が初めてでした。

 12年1月に脳梗塞を起こし、歩行困難など障害が残る三浦さん。それでも、戦前の状況に今の日本が似ている、という危機感から、ジュニアライターに体験や思いを話してくださいました。私たちは、その言葉の一つ一つをしっかり受け止めなくてはなりません。(二井)

(2013年4月8日朝刊掲載)

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