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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 天登進さん 百合江さん夫妻―今も命 そのことに感謝

天登進(あまと・すすむ)さん(85) 百合江(ゆりえ)さん(83)夫妻=広島市南区

働き者の姉死亡。 夫婦で向き合う「あの日」

 毎年8月6日が近づくと、天登百合江さん(83)と夫の進さん(85)は2人で話します。「ひどい目に遭(あ)ったけど、生き残ることができただけでも幸せじゃね」。生かされた命に感謝するのです。

 百合江さんは当時、広島市立第二高等女学校(現舟入高)の専攻科に通う17歳でした。動員学徒として爆心地から約1・6キロの打越町(現広島市西区)の工場に来ていました。食堂の掃除(そうじ)当番で、鉢巻(はちま)きを締(し)めようと、鏡の前にいた時です。オレンジの光とともに大音響(だいおんきょう)がして建物ががたがたと崩(くず)れました。

 下敷きになりながらも、はい出した百合江さんの顔や背中には、ガラスが刺(さ)さっていました。「血とほこりで乙女(おとめ)の姿は一瞬(いっしゅん)で消えた」と振(ふ)り返(かえ)る百合江さん。左手も負傷し、2本の指は真っすぐに伸(の)ばせなくなりました。

 東白島町(中区)の自宅に戻(もど)ると、家は焼失。避難(ひなん)場所に行くと、母フサさん(63)が心細そうにしていました。美容師だった姉英子さん(36)の姿はありませんでした。

 美容室をしていた自宅は被爆前、建物疎開(そかい)の対象になり、立ち退く必要がありました。知り合いに聞いて分かったのは、姉は6日朝、近所で商売が続けられるよう交渉(こうしょう)に行き、その家の下敷(したじ)きになったらしい、ということでした。

 百合江さんと母は、姉のものと思われる骨を、白い布いっぱいに拾い集めました。父は既(すで)に他界しており、姉が家計を支えていました。「結婚(けっこん)せずに家族を支え、国の犠牲(ぎせい)になって死んだ姉がかわいそう」。百合江さんは涙(なみだ)をこらえます。

 進さんと結婚したのは1953年。進さんも被爆者でした。「あの時」、東洋工業(現マツダ)に勤める18歳。夜勤明けの休みの日でした。爆心地から約1・6キロの鶴見橋近くに出かけていました。爆風で飛ばされ、気付いた時は川の中でした。

 左半身を大やけどしました。薬がなく、民間療法(りょうほう)で効くと言われていた骨粉に油を混ぜ、やけどした皮膚(ひふ)に塗(ぬ)りました。今もケロイドが残っています。

 進さんは今、足の関節が悪く、一日の大半をベッドで過ごしています。「若い人に言うても分からんかもしれん。でも、原爆も戦争もいけんこと」と訴(うった)えます。

 百合江さんは、戦争一色だった10代のころを思い、「今の子どもたちは幸せです。努力次第で夢がかなえられる。精いっぱい努力してほしい」と願います。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

建物疎開

取り壊して延焼阻止

 建物疎開(そかい)は、空襲(くうしゅう)による火災の延焼を防ぐために建物を取(と)り壊(こわ)す作業のことです。戦時中、全国の都市で行われ、広島市では1944年11月に国の指示を受けて開始。燃えると困る、として市役所や県庁、軍需工場などの周りを壊(こわ)しました。

 戦時中はすべての国民が戦争に協力するよう法律で決められていました。45年8月6日も、今の中学生以上に当たる動員学徒、地域や職場ごとに編成された大人たちが作業中で、原爆で大勢が犠牲(ぎせい)になりました。原爆資料館(広島市中区)が2004年に開いた企画(きかく)展によると、約5900人の動員学徒が建物疎開作業に出ていて亡くなったそうです。

 同資料館には、真っ黒に焦(こ)げた弁当や女学生の夏服など作業に動員された人の遺品が展示されています。学芸員の落葉裕信さん(34)は「亡くなった人の苦しみや家族の悲しみが伝わる遺品に向き合い、原爆の恐(おそ)ろしさや平和の大切さを感じてほしい」と話しています。

◆私たち10代の感想

自ら進んで体験聞く

 百合江さんから「戦時中は青春も何もなかった」と聞き、今の生活が恵(めぐ)まれていると思い知らされました。

 また、戦争中に起きたことを学んでほしいとも聞きました。学校で平和授業を受けるだけでなく、これからも自ら進んで被爆体験を聞いたり、戦争について調べたりしたいです。(高1・高橋寧々)

二人からメッセージ

 進さんは「若い人には分かってもらえないかもしれない」。百合江さんは「思い出すのがつらい」と言いながら、戦争の悲惨(ひさん)さを伝えるために、悲しい記憶を語ってくれました。「戦争は絶対にいけない」という二人の思いを受け継がなければならないと強く感じます。(高1・秋山順一)

◆編集部より

 舟入高に広島市立第二高等女学校の学籍簿が保管されています。天登百合江さんについて「副級長として責任感が強かった。1944年12月、動員先の工場から表彰を受けた」と書き残されています。

 百合江さんの青春時代は、戦争のまっただ中でした。軍需工場に動員され、勉強どころではなくなりました。セーラー服のリボンさえも学校に着けていけなくなったそうです。

 1945年8月6日に投下された原爆は、家計を支えていた美容師の姉の命を奪いました。そんな百合江さんの「戦争は絶対にいけない」という言葉は、インタビューした2人の高校生の心にも響いたようです。

 ところで、百合江さんは偶然にも、105号に登場していただいた国分良徳さんと小学校時代の同級生でした。百合江さんは「戦争のころの話をする同級生も少なくなり、寂しい」と話しておられました。何10年ぶりかの再会が実現することを願っています。(増田)

(2012年2月14日朝刊掲載)

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