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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 砂元良香さん―闘病の日々 情熱失わず

砂元良香(すなもと・よしか)さん(82)=広島県府中町

被爆後は体が弱く。涙かみしめ仕事に専念

 「ピカッ」。突然(とつぜん)の左前方からの強い光に、意識を失いました。気が付くと、爆風(ばくふう)で隣(となり)の工場へ吹(ふ)き飛(と)ばされていました。がれきの中から必死ではい出し、下敷(したじ)きになっていた友人3人を夢中で引っ張り出した時です。「おまえ、随分ひどくやられたな」。友人にそう言われて初めて、自分が血だらけになっていることに気付きました。

 砂元良香さん(82)は当時14歳。広島県立広島第一中学校(現国泰寺高、広島市中区)の3年生でした。1945年8月6日は、爆心地から約2キロの舟入川口町(現中区)の軍需(ぐんじゅ)工場に動員され、上半身裸で作業をしていました。

 閃光(せんこう)を浴び、左半身をやけど。左腕(うで)は肉が8センチえぐられ、今も痕(あと)が残るほどです。

 友人たちと、避難(ひなん)場所になっていた近くの広島市立第一高等女学校(現舟入高)へ。その後、治療(ちりょう)を受けるため江波町(現中区)にあった陸軍の病院へ向かいました。

 しかし、そこは重症患者(じゅうしょうかんじゃ)でいっぱい。治療を諦(あきら)め、翠町(現南区)の自宅(じたく)へ帰ることにしました。途中(とちゅう)、家屋の倒壊(とうかい)や火災に阻(はば)まれながら、渡し船に乗せてもらったり、干潮(かんちょう)の川を歩いて横切ったりして、何とか自宅へたどり着きました。

 父の知り合いの軍医に診(み)てもらうと、治るまでに半年はかかると言われました。ショックで一晩泣き明かしました。目指していた、海軍の幹部を養成する海軍兵学校予科の受験に間に合わないと思ったからです。

 敗戦を挟んで半年の休養後、中学に復学し、広島工業専門(せんもん)学校(現広島大工学部)に入学しました。自動車時代の到来(とうらい)を見越(みこ)して、学校では自動車部に所属。卒業後は、自動車の販売(はんばい)会社に技術者として就職(しゅうしょく)しました。

 ところが、入社1年目の夏、埼玉県の自動車製造工場で研修中、原因不明の高熱に襲(おそ)われます。39度以上の熱が続き、広島へ戻(もど)ることになりました。

 1年間の休職を余儀(よぎ)なくされました。「何でこんなに体が弱いのか」。思うように働けない自分を責(せ)め、悔(くや)しくて何度も泣きました。

 復帰後、原爆症(しょう)と認定(にんてい)された前立腺(ぜんりつせん)がんや高血圧性心臓(しんぞう)病と闘(たたか)いながら、仕事に専念(せんねん)しました。

 山口市にある自動車販売会社の社長などを務め、98年に67歳で相談役を辞めるまで働き続けました。今は、広島県府中町で妻と暮らしています。

 「挫折(ざせつ)をしても、諦めないことが大切だ。自分がやろうと思ったことは最後までやり遂(と)げてほしい」。若者(わかもの)たちには、そう呼(よ)び掛(か)けます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

原爆症認定

司法・国 判断に隔たり

 被爆者援護(えんご)法に基づく救済策(きゅうさいさく)の中に、「原爆症認定(しょうにんてい)」制度があります。がん、白血病などの病気やけがの原因が原爆で、かつ治療(ちりょう)が必要であると、厚生労働省が認定した被爆者に、医療(いりょう)特別手当(月約13万6千円)を支給する仕組みです。

 長年、認定するよう申請(しんせい)しても却下(きゃっか)されるケースが多く、認定された人は、被爆者全体の1%にも満たない状況(じょうきょう)が続いていました。

 2003年以降、申請を却下された被爆者らが集団で、広島など全国の地裁(ちさい)で認定を求める訴訟(そしょう)を起こしました。

 裁判(さいばん)で国が相次いで敗訴(はいそ)したため、厚労省は08年4月、それまでの認定基準を改めました。認定件数は大幅(おおはば)に増加しました。

 裁判で原爆症と認められても認定申請は却下されるなど、司法と国の判断の隔(へだ)たりは依然(いぜん)あります。厚労省は10年12月、有識者による検討(けんとう)会を設置。制度の見直しを進めています。

≪原爆症認定の主なポイント≫ ※厚生労働省の資料から作成

①爆心地から3.5キロ以内で被爆
②原爆投下から100時間以内に、爆心地から2キロ以内に入った
③原爆投下から2週間以内に、爆心地から2キロ以内に1週間程度滞在

①~③のいずれかに当てはまり、固形がん(胃、大腸、乳、食道など)や白血病、副甲状腺機能亢進症(こうしんしょう)、放射線白内障など七つの病気になった場合は、積極的に認定する。
 それ以外の場合は、被曝(ひばく)線量などから総合的に判断する。

◆私たち10代の感想

目標定め行動したい

 「目標に向かって突(つ)き進(すす)み、自分がやろうと思ったことをやり遂(と)げてほしい」と砂元さんは話していました。

 戦時中とは違(ちが)って、今は自由に自分の考えを言うことができるし、行動することもできます。そんな時代に生まれたことに感謝して、私も何か夢中になれるものを見つけたいです。(中2・正出七瀬)

平和の大切さ再認識

 被爆体験を聴(き)くのは初めてでした。大けがをしながらも同級生を助け出した砂元さんの行動に驚(おどろ)きました。今も消えない腕(うで)の傷痕(きずあと)を見た時は原爆の恐(おそ)ろしさを痛感(つうかん)しました。

 「平和とは当たり前に物事ができること」と砂元さん。当たり前に生活が送れる大切さを忘(わす)れてはいけないと感じました。(中3・中野萌)

◆編集部より

 砂元さんは、広島工業専門学校(現広島大工学部)を卒業後、旧日産ディーゼルの販売会社に勤めました。原爆症と闘いながらも、広島、岡山、山口など転勤を経て社長にまで上り詰めたのです。

 自動車や仕事の話をする砂元さんは生き生きとしていました。専門学校時代、木を燃料とする「まきガス自動車」の研究に取り組んだこと、入社時から退職するまでに交わした名刺が9万6千枚にもなったこと…。

 入社直後は、研修のため埼玉県で暮らしました。休憩中、広島での被爆体験を車座になって話すこともありました。一躍、休憩時間の人気者になったそうです。その時、被爆者への偏見は感じることはなかったそうです。

 研修中、原爆が原因とみられる高熱に襲われ休職を余儀なくされます。その後も、がんや心臓病といった原爆症に見舞われます。それでも困難にめげず、仕事に情熱をささげた砂元さんから、諦めないことの大切さを学びました。(増田)

(2013年6月11日朝刊掲載)

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