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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 中村久子さん/フレージャー静枝さん―10人家族は生き延びた

中村久子(なかむら・ひさこ)さん(87)=広島市西区

フレージャー静枝(しずえ)さん(82)=米ロサンゼルス

妹は米に移住。戦争は国同士がやったこと

 長女の中村久子さん(87)と次女のフレージャー(旧姓中村)静枝さん(82)姉妹は被爆当時、8人きょうだいに両親の10人家族でした。うち7人は、広島市三篠本町2丁目(爆心地から約2キロ、現西区)の自宅にいました。外出していた3人も含め、10人全員が生き延びました。戦後、静枝さんは米軍の岩国基地(岩国市)で知り合った米兵と結婚(けっこん)。今も米国に暮らしています。

 あの時、19歳だった久子さんは、広島信用金庫の前身、広島市信用組合の左官町の支店(爆心地から約0・5キロ、現中区)へ出勤する直前でした。パーッと光った瞬間(しゅんかん)、家が倒れてきました。腹痛で女学校を休んでいた14歳の静枝さんは、母の使いで横川(現西区)へ粉ミルクを探しに行き家に戻(もど)ってきた時、ピカーッと光ったのです。

 蚊帳(かや)をつって寝ていた生後4カ月の双子の妹が見当たりません。火の手が迫る中、「2人はもう死んでるから駄目じゃ」と制止する母を振り切って、静枝さんが家に飛び込むと、柱や壁の間に白いものが見えました。双子の1人でした。久子さんと捜すと、もう1人も見つかったのです。

 双子は目が上を向き、硬(かた)くなっていました。しかし母が着物の裾(すそ)を破って、水を浸(ひた)して顔を拭(ふ)くと、目が動きだしたのです。「喜んだ母のあの顔が今もよう忘れられん」と静枝さんはほほ笑みます。

 家の中で無事だった9歳の次男と4歳の四女も連れて、大芝国民学校(爆心地から2・4キロ、現西区)に登校していた11歳の三女恒子さんを迎えに行きました。朝礼中で校庭にいた恒子さんは、右腕(みぎうで)や足をやけどしていました。

 8人は、トラックに乗せてもらいながら、叔母(おば)の家族が疎開(そかい)していた可部(現安佐北区)へ逃げました。小網町(現中区)へ勤労奉仕(ほうし)に行く途中(とちゅう)だった父は天満町(爆心地から約1キロ、現中区)で、17歳の長男は動員先の江波町(同約4キロ、同)でそれぞれ被爆。歩いて自宅に戻りました。

 9日ごろ父が可部を訪れ、やけどのひどかった恒子さんと、看病する久子さん以外の7人は、10日に三篠に帰り、防空壕(ぼうくうごう)で暮らし始めました。恒子さんはツワブキの葉をもんで患部(かんぶ)に貼(は)ったのが効き、20日ごろ家に戻りました。

 戦後、静枝さんはタイピストとして岩国基地に勤務。28歳の時に米兵と結婚し、米国に渡りました。「『行く』言うたら聞かん。仕方なかったんでしょう」と笑う久子さん。静枝さんは「戦争は国同士がやったこと。人と人とでは特に問題ない。差別もない」と言います。聞かれれば、被爆体験を話す静枝さん。多くの人は一生懸命(いっしょうけんめい)聞き、「悪かったね」と言う人もいるそうです。

 「政治のことはよく分からないけど、私たちが体験を話すことで、少しでも役に立つならいい」と2人は話します。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

米海兵隊岩国基地

滑走路は民間と併用

 岩国市を流れる錦(にしき)川の河口に米海兵隊岩国基地=写真=があります。沖縄以外では日本でただ一つの米海兵隊の航空基地で、自衛隊も一部を使っています。

 基地の始まりは、1938年にさかのぼります。当時の日本軍が住民の土地を買い上げて岩国飛行場を建設。40年7月、岩国海軍航空隊が発足しました。

 終戦翌月の45年9月に米海兵隊が進駐(しんちゅう)。続いて英国とオーストラリアの部隊もやって来ました。52年4月の日米安保条約発効後、英豪(ごう)軍は撤退(てったい)し、米空軍基地になりました。

 62年7月、海兵隊の基地に。60、70年代のベトナム戦争や、90年代初頭の湾岸(わんがん)戦争では、ここから戦地へ兵士や物資が運ばれました。

 一方、市民は騒音(そうおん)や事故の危険にさらされてきました。このため、海を埋(う)め立てて沖の方に新しい滑走路が造られ、2010年5月から使い始めています。しかし、米海軍厚木基地(神奈川県)から原子力空母に載せる戦闘機(せんとうき)約60機などが移ってくる予定です。

 昨年12月には「岩国錦帯橋(きんたいきょう)空港」が開港、滑走路(かっそうろ)は民間空港としても使っています。

◆私たち10代の感想◆

手を取り合う重要性

 「国と国は戦っても、人と人とは友だちになれる」。中村さん姉妹は、言います。原爆を落とされた日本の人と、落とした米国の人が、今は夫婦や友だちになっていることがまさしく、その証明でしょう。

 過去の過ちは忘れてはいけないけれど、手を取り合うことが重要だと思います。(高2・神安令)

個人単位 相互理解を

 静枝さんの被爆体験を聞いた米国人の友達が「悪いことをしたね」と言ってくれるそうです。戦争とは、罪のない人を巻(ま)き込(こ)んだ、国同士のけんかだと気付きました。

 多くの米国人が、日本人と仲良くしたいのではないでしょうか。個人レベルで理解し合えば、戦争を防ぐ一策になるはずです。(高2・吉本芽生)

◆編集部より

 被爆した10人全員が生き延びた中村家。被爆当時45歳だった父・弥一(やいち)さんは小網町に勤労奉仕に行った町内で、ただ1人生き残りました。歯茎からの出血や脱毛、紫の斑点が出るなど放射線による急性症状に苦しみましたが、母・妙子(たえこ)さんが3~4カ月間、お灸を施したおかげか元気になり、81歳まで生きました。母も71歳まで生きました。ただ、父は肺ガン、母は肺・膵臓ガンで亡くなり、長男の保(たもつ)さんも膵臓ガンで亡くなりました。双子の妹もそれぞれ子宮ガン、甲状腺の手術を受けています。「やっぱり原爆の影響かねえ」と久子さん、静枝さんは不安そうに話していました。

 静枝さんは約1年振りの帰国で、約2カ月間、久子さんが住む実家に滞在しました。「こっちだと被爆者健康手帳があるから、いろいろ診てもらえてありがたい」と話します。ただ、80を過ぎ、長旅がつらくなっているのも事実です。「今回が最後かねえ」とも。6月中旬、「私は日本人だけど、向こうに長くいるから、米国はセカンド・カントリーになってるよね」と、米国に戻っていきました。(二井)

(2013年6月24日朝刊掲載)

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