×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 野上光章さん―雨の危険性 思いもせず

野上光章(のがみ・みつあき)さん(79)=広島市西区

身を潜めた防空壕。へそまで水に漬かった

 三篠国民学校(現三篠小、広島市西区)の6年生だった野上光章さん(79)は、爆心地から約1・9キロの学校で被爆しました。帰宅(きたく)後に逃(に)げ込(こ)んだ防空壕(ごう)で、火の勢いが収(おさ)まるまで身を潜(ひそ)めていました。やがて降(ふ)り始(はじ)めた雨が流(なが)れ込み、へその辺りまで漬(つ)かりました。その時は、雨水に放射性(ほうしゃせい)物質が含(ふく)まれているとは考えもしませんでした。

 あの日、朝礼のため校庭へ出ようとしていた時、いすを講堂へ運ぶよう、先生に言われました。運び終えて教室に戻(もど)り、再び校庭に出ようとした瞬間(しゅんかん)でした。「ドーン」。鈍(にぶ)い音がして意識を失いました。気が付くと、7~8メートル吹(ふ)き飛(と)ばされ、廊下(ろうか)にいました。左腕(ひだりうで)にかすり傷(きず)があった程度で、大きなけがはありませんでした。

 自宅(じたく)は、学校に隣接(りんせつ)している三篠神社でした。夢中で走って戻ると、倒壊(とうかい)した社務所の下敷(したじ)きになっていた父が、はい出してきたところでした。体には三十数カ所の切り傷ができていました。

 父と避難(ひなん)しようとしましたが、四方を火に囲まれ、身動きが取れなくなりました。西側は学校の木が燃え、北側の建物から出火。東からは、建物疎開(そかい)作業のために連れて来られた牛が猛(もう)スピードで走って来ます。南に逃げようとすると、避難してきた人から、「こっちは駄目(だめ)だ」と止められました。

 やむなく、境内に掘(ほ)られた壕に飛び込みました。既(すで)に近所の人たちが避難していました。熱風が近づき、別の壕へ移ることにしました。その人たちにも促(うなが)しましたが、「神様のそばで死にたい」と、その場を動きませんでした。残った4人のうち3人は、壕の中で亡(な)くなったそうです。

 別の壕で夕方まで、下半身が雨水に漬かったまま座(すわ)り込んで、火の勢いが落ち着くのを待ちました。ようやく外に出ると、母と弟、3人の妹が疎開していた川内村(現安佐南区)に向かって父と歩きました。着いたのは午後9時ごろ。終戦を挟(はさ)み、9月上旬まで川内村で暮(く)らしました。

 戦後は教師になり、1959年から30年近く、小学校に勤(つと)めました。88年に父が亡くなった後、三篠神社の宮司(ぐうじ)の職を継ぎました。64年に結婚し、今は孫が7人います。被爆体験を語るようになったのは、教師を辞めてから。原爆の悲惨(ひさん)さを伝えようと、地元の三篠小の児童や修学旅行生に証言しています。

 6年前、ぼうこうがんが見つかりました。被爆直後に漬かった雨水のせいではないか、と思っています。「後々まで影響(えいきょう)を残してしまうのが原爆。核兵器(かくへいき)は絶対に許したらいけない」と訴えます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

三篠国民学校

朝礼の最中 爆風襲う

 爆心地から北へ約1・9キロの広島市三篠本町1丁目(現西区)にあった三篠国民学校(現三篠小)は、原爆で校舎や講堂が全焼しました。

 広島原爆戦災誌(し)によると、2千人を超(こ)す大規模(だいきぼ)校でしたが、被爆当時は多くの児童が疎開(そかい)。あの朝、校内にいた児童は90人ほどでした。校庭では朝礼の最中でした。児童たちは爆風(ばくふう)で吹(ふ)き飛(と)ばされました。服はぼろぼろに焼かれ、顔や手足の皮膚(ひふ)がむけ、泣(な)き叫(さけ)ぶ声が交差しました。30人の児童と教職員3人は即死(そくし)だったそうです。

 小網町(現中区)付近の建物疎開作業などに出ていた児童も、亡(な)くなりました。原爆資料館(中区)が2004年に開いた動員学徒に関する企画展によると、三篠国民学校の児童は61人が原爆の犠牲(ぎせい)になりました。

 1945年12月ごろにバラック教室ができるまで、屋外での「青空教室」が続けられたそうです。

◆私たち10代の感想

想像力膨らませたい

 「もしあなたが同じような状況(じょうきょう)に置かれたら、どう思いますか」。野上さんは、被爆体験を話しながら私たちに何度も問い掛けました。原爆を実際に体験していないから、本当の怖(こわ)さは分かりません。でも、想像力を膨(ふく)らませ、核兵器(かくへいき)をこの世界からなくすために何をすべきか、真剣(しんけん)に考えたいです。(中2・谷岡南実)

核廃絶 みんなの願い

 「全ての保有国に働き掛け、世界から核兵器(かくへいき)をなくす努力をしてほしい」。野上さんの言葉は、原爆の惨禍(さんか)が世界のどこでも起きてほしくないという被爆者全員の願いだと思います。核のない世界にするため、これからも被爆証言をできるだけ聞き、周りの人たちに8月6日に何が起きたかを伝えたいです。(高2・神安令)

◆編集部より

 野上さんは8月9日、避難先の川内村(現安佐南区)から、自宅である三篠神社(西区)にいったん戻って来ました。

 そこで見た光景は、今でも忘れられません。神社は焼失し、辺りは焼け野原になっていました。境内に掘られた穴に避難していた近所の老夫婦とその孫は、その場で亡くなっていました。

 隣接する三篠国民学校(現三篠小)に、死体が運ばれていくのも目にしました。何もかもが焼き尽くされた臭いは、今でもよみがえってきます。

 家族は無事でしたが、通っていた三篠国民学校では多くの児童が亡くなりました。野上さんは戦後、友達や家族がいなくなり、ひとりぼっちになってしまうという夢を度々見たそうです。

 「原爆や戦争で悲惨な目に遭う人が二度と出てほしくない」。そんな思いを込め、子どもたちに証言を続けています。(増田)

(2013年11月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ