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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 水田春枝さん―夢の教職 突然奪われる

水田春枝(みずた・はるえ)さん(88)=広島市安佐南区

やりたいこと「戦時中はできなかった」

 尋常(じんじょう)小学校1年の時に出会った女の先生に憧(あこが)れたのがきっかけで、夢を追い続けて教職に就いた水田春枝さん(88)。神崎(かんざき)国民学校(現神崎小、広島市中区)で教壇(きょうだん)に立って4年目、20歳の夏にその道を閉ざされました。

 学校で宿直をしていた水田さんは、1945年8月6日の朝を校舎内で迎(むか)えました。朝ご飯を食べ、一緒(いっしょ)に泊(と)まっていた校長や先輩(せんぱい)の女性教諭(きょうゆ)2人の食器を洗っていました。8時15分から職員室で朝礼があるから、と急いでいた時です。突然(とつぜん)、天井(てんじょう)が落ち、ガラスが飛んできました。そのまま気を失いました。

 校長か、学校にいた警防団の人にがれきの下から引っ張り出され、防空壕(ぼうくうごう)に行きました。すると校長から「避難(ひなん)場所へ行け」と指示されました。ちょうど井口(いのくち)村(現西区)の広島実践(じっせん)高等女学校(現鈴峯(すずがみね)女子中・高)に通う卒業生と出会い、手をつないで、あらかじめ決められていた五日市(現佐伯区)へ向かって歩き始めたのです。

 間もなく黒い雨が降りだしました。ガラスや瓦(かわら)で血が出ていた顔にも、白いブラウスやもんぺにも、どろっとしたものが付きました。それでも歩き続けました。

 五日市の民家前で「着いた」という声を聞いた途端(とたん)、水田さんは意識がなくなりました。どれだけ時間がたったでしょうか、目を覚ますと、民家の女性に「交通機関は全滅(ぜんめつ)ですよ」と言われたので、山道を通って、2日かけて東野(ひがしの)(現安佐南区)の自宅に歩いて戻りました。

 学校まで水田さんを捜(さが)しに行った母アキヲさんは、西側の裏門に「行方不明」と書いてあったのを見て、死んだと思っていました。水田さんの肩(かた)や足に手をやり「よう戻(もど)った。はよ寝(ね)とれ」と喜んだそうです。

 水田さんの顔の傷は、近所の人が赤チンを塗(ぬ)ってくれました。しかしその後、髪(かみ)が抜(ぬ)け、血便も出ました。「亡くなるとばっかり思いよりました」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 家の中の涼(すず)しい所へ行っては休む日々。母が水田さんの面倒(めんどう)を見てくれました。水田さんはまもなく、復員してきた久人さんと結婚(けっこん)しました。「働きもせず、親に孝行していない」と残念がります。

 水田さんは「今は、勉強ができて大学にも行ける。平和学習もできる。希望を持ち、自分のやりたいことができる。戦時中はできなかったのよ」と話します。だからこそ、これからも平和であってほしい、と願います。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ

神崎国民学校

爆風で校舎倒れ炎上

 爆心地から南西に約1・2キロの地点にあった神崎(かんざき)国民学校(現神崎小)は、児童140人、教職員8人が原爆で亡くなりました。

 当時、1860人が学校に在籍(ざいせき)。うち1440人が疎開(そかい)していました。420人は自宅にいて、学校や近くの寺に分かれて登校していました。

 原爆投下とともに、木造2階建ての校舎は爆風(ばくふう)で倒(たお)れるとともに火に包まれました。既(すで)に登校していた約25人の児童は、校舎の下敷(したじ)きになって亡くなったようです。漫画(まんが)家の故中沢啓治さんは、同校1年生で、学校の西側にあった裏門を入る直前に被爆し、コンクリートの塀(へい)が陰(かげ)になって助かりました。

 疎開中の児童は助かりました。しかし、身内が原爆で亡くなり、孤児(こじ)になった子どももいました。

 戦後、校舎がなくなったため本川、舟入両国民学校で授業を再開しました。1950年4月に神崎小として再発足。同年9月に、戦前より北東に100メートルほど移動した今の場所に新校舎が完成しました。

◆私たち10代の感想

語学身に付け対話を

 「話し合った方がいいのに、言葉では通じないのが戦争です」と水田さんは語ります。戦時中は、互(たが)いに傷つけ合うことで「意思」が示されてきました。

 今は、一人一人が他国の人と、面と向き合って話し合えます。平和を保つため、私たちは語学を身に付け、世界の国の人々と対話をしていくべきです。(中3・谷口信乃)

悲惨な街想像し恐怖

 被爆当時、黒い雨が人に害をもたらすとは誰(だれ)も知りませんでした。焼け野原の中、水田さんは黒い雨に打たれながら逃(に)げたのです。話を聞くにつれ、悲惨(ひさん)だった街の様子が浮(う)かんで恐怖(きょうふ)を覚えました。これからは、私たちが戦争の恐(おそ)ろしさと平和の大切さを、世界へそして未来へと伝えなければなりません。(高2・梶本恭平)

◆編集部より

 当時、水田さんは3年生の担任でした。子どもたちは広島県北部、山県郡の寺に集団疎開して現地の学校に通っていました。原爆が投下される前、水田さんは子どもたちに会いに行くことができました。親と離れて辛い生活を送る子どもたち。登校する子どもたちと別れる際、水田さんも子どもたちも涙が出たそうです。

 戦後、久しぶりに会った教え子は、水田さんに「私には被爆者健康手帳がない」と言いました。家族が被爆してだれも迎えに来られなかったため、手帳がもらえる8月20日までに広島市に戻ることなく、疎開先で過ごしていたからです。水田さんは「私が迎えに行っとりゃあえかったのに、私は家でぶらぶらしとった…」と言います。水田さん自身、被爆して放射線による急性症状が出ていたにもかかわらず、です。「もう過ぎたことじゃけえ、仕方ないよね…」。自らを納得させるように話す水田さん。この68年間、ずっと自責の念にかられながら生きてきた、ということが分かります。この心の苦しみをどうすれば和らげることができるのか。私にはまだ答えが見つかりません。(二井)

(2013年11月25日朝刊掲載)

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