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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山中松子さん―防火水槽で熱気逃れる

山中松子(やまなか・まつこ)さん(82)=広島市西区

恐ろしい放射線。体のだるさに苦しめられ

 山中(旧姓浅川)松子さん(82)は、爆心地から約1・6キロの広島貯金支局(広島市千田町、現中区)で被爆しました。訳(わけ)が分からないまま逃(に)げ、たどり着いたのは爆心地の東南約500メートルの防火水槽(すいそう)。熱気から逃(のが)れるため水槽に漬(つ)かり、周囲の火災が落ち着くのを待ちました。そこから見た渦巻(うずま)く炎(ほのお)と真っ暗な空が、今も脳裏(のうり)に焼き付いています。

 当時は、広島女子商業学校(現広島翔洋(しょうよう)高)の3年生。14歳でした。学徒動員先の広島貯金支局にいて、始業前に書類を取りに地下1階へ下り、4階に上がった時でした。突然(とつぜん)、吹(ふ)き飛(と)ばされて気を失いました。意識が戻った時、周りに誰(だれ)もいませんでした。

 どこをどう逃げたのか覚えていません。気付いた時に漬かっていた防火水槽には、腕(うで)に大けがをした年配の女性と、2人の男性がいました。水槽が熱くなると、男性がポンプの水を入れて冷やし、雨が降(ふ)ると、トタンをかぶせてくれました。

 夕方、やって来た警防(けいぼう)団の男性に「逃げなさい」と促(うなが)されました。年配の女性を広島赤十字病院(現中区)へ連れて行きました。

 その後、宇品町(現南区)の叔母(おば)の家に向かいました。家では嘔吐(おうと)を繰(く)り返(かえ)し、その晩(ばん)は一睡(いっすい)もできませんでした。

 翌日(よくじつ)、母や妹らが疎開(そかい)していた吉島本町(現中区)へ行き、父母と妹2人と再会しました。喜ぶ間もなく倒(たお)れて、数日間、寝込(ねこ)みました。

 3人いた弟のうち2番目は宝町(現中区)の自宅で被爆。手当てを受けていた仁保国民学校(現仁保小、南区)から9月に戻って来ました。しかし建物疎開に出ていた1番目と、自宅にいた3番目の弟は、原爆で亡(な)くなりました。

 山中さんのけがは、左腕や足先の切り傷(きず)だけでしたが、原爆ぶらぶら病と呼(よ)ばれる被爆者特有の体のだるさに苦しめられました。

 商業学校を卒業後、職場で知り合った夫と1950年に結婚(けっこん)しました。長男は原発関係の仕事をしています。自宅は、事故を起こした福島第1原発の10キロ圏内(けんない)にほぼ入っており、全町民が避難(ひなん)を強(し)いられています。長男は今、第1原発から20~30キロにある勤(つと)め先の寮で生活。妻は仮設住宅で暮(く)らしています。

 「原発事故で息子にどんな影響が出るか心配でならない。放射線の恐(おそ)ろしさはよく分かっている。だから原発には反対だ」。東日本大震災(しんさい)の後、強く思うようになりました。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

広島貯金支局

避難女性が無事出産

 広島貯金支局は、爆心地から約1・6キロの広島市千田町(現中区)にありました。鉄筋(てっきん)地上4階、地下1階建て。1937年に完成しました。

 広島原爆戦災誌(し)によると、原爆で窓(まど)ガラスや書棚(しょだな)、机(つくえ)、椅子(いす)などが吹(ふ)き飛(と)ばされ、多くの人が死傷(ししょう)しました。エレベーターは壊(こわ)れ、みんなが慌(あわ)てて下りた階段(かいだん)の手すりや壁(かべ)は血で真っ赤になったそうです。

 業務を引き継いだ旧中国郵政(ゆうせい)局が被爆50年の時にまとめた資料によると、福屋百貨店(現中区)にあった分室も含(ふく)め、死者90人の名前が確認(かくにん)できます。

 被爆直後、地下室は避難(ひなん)場所になりました。避難してきた女性が、助産師の助けで無事に赤ちゃんを出産しました。この逸話(いつわ)を伝え聞いた広島市出身の詩人栗原貞子(くりはら・さだこ)さん(1913~2005年)が、原爆詩「生ましめんかな」を創作(そうさく)しました。

 建物は、被爆後も補修(ほしゅう)を重ねて使われていましたが、89年3月、解体されました。

◆私たち10代の感想

世界中に友達ほしい

 「世界でいろいろな体験をして、現地の人と仲良くなってほしい」と山中さんは話していました。まずは広島にいる留学生と友達になってみたいです。みんなが世界中に友達をつくれば、「あの国には私の友達がいるから戦争はしたくない」という考えが広がり、国同士の争いが減っていくと思います。(小6・藤井志穂)

原発のない社会願う

 長男が福島第1原発で働いている山中さん。使用済(しようず)み核燃料の処分(しょぶん)方法が決まっていない原発には反対だそうです。しかし、原発は息子の勤め先であり、複雑な気持ちにもなると言います。このような思いをする人がいなくなるよう、節電に心掛け、原発のない社会をつくりたいです。(高2・市村優佳)

◆編集部より

 山中さんは、家族や友人といった身近な人以外に被爆体験を語るのは初めてでした。弟2人の命を奪い、自身の健康をもむしばんだ原爆。思い出すのもつらい記憶です。

 しかし、人間同士が殺し合う戦争の愚かさを若者に知ってもらいたいと、取材を快諾してくれました。「子どもたちに(原爆で苦しんだ私たちと)同じ思いをさせたくない」という気持ちも強かったそうです。

 「戦争の悲惨さを知らなければ、人間は同じ過ちを繰り返してしまう」とも。原爆投下から68年余り。山中さんの言葉をしっかりと受け止めなければなりません。(増田)

(2013年12月10日朝刊掲載)

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