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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 幟建末子さん―父の涙が「忘れられぬ」

幟建末子(のぼりたて・すえこ)さん(84)=広島市西区

遺言残し亡くなる。自身もひざ痛で苦闘

 15歳で被爆し、重傷(じゅうしょう)を負った幟建(旧姓白川)末子さん(84)は、父が亡(な)くなる前に流した涙(なみだ)を忘(わす)れることができません。父は、原爆で大けがはしなかったものの、体に紫(むらさき)の斑点(はんてん)が出て、被爆から16日後に息を引き取りました。「末子を頼(たの)む」との遺言(ゆいごん)を残して。

 広島市立第一高等女学校(現舟入高)4年生だった幟建さん。「あの日」は、学徒動員先の工場が休みで、楠木町(現西区)の自宅(じたく)(爆心地から約1・5キロ)にいました。

 近所の人が尋(たず)ねてきたので、母と玄関(げんかん)にいた時です。突然、ガラス戸越しに「火花が散るような光」が見えました。爆風(ばくふう)で飛ばされ、気付いた時は顔から血が流れていました。

 動こうとしても、立ち上がれません。右膝(ひざ)の辺りが5センチほどえぐれ、ガラス片(へん)がたくさん刺(さ)さっていたのです。必死ではい出して辺りを見ると、母は梁(はり)の下敷(したじ)きになり、助けを求めていました。通りがかった知人に救出され、近くの三篠橋の下まで連れて行ってもらいました。

 そこで、軍隊向けに材木を調達する仕事に出ていた父に会いました。父は、爆心地から約700メートルの堺町(現中区)辺りで被爆しましたが、建物の陰(かげ)になったため助かりました。

 夕方ごろ、舟(ふね)で父母と大芝町(現西区)の川岸へ避難(ひなん)。数日後、父のいとこが捜(さが)しに来てくれ、父の実家がある筒賀村(現広島県安芸太田町)へ、トラックで移動しました。やがて父は髪(かみ)の毛が抜(ぬ)け、歯茎(はぐき)から出血。最期まで大けがを負った末子さんを心配しながら、8月22日に亡くなりました。

 幟建さん自身も高熱が続きました。11月になり、つえをついて歩けるまで傷(きず)が癒(い)え、母方の親戚(しんせき)を頼(たよ)りに広島市内へ戻(もど)りました。

 46年の春、学校を卒業。先生の薦(すす)めもあり、広島女学院専門学校(現広島女学院大)に進みました。22歳で結婚(けっこん)して、長男を出産。37歳の時、地域(ちいき)の人に頼まれて保護司になり、約40年間、非行少年たちを更生(こうせい)に導く活動を続けました。

 右ひざのけがの影響(えいきょう)で、一時は正座(せいざ)ができませんでした。歩き方が不自然な時期もあり、陰口を言う人もいました。原爆を恨(うら)みました。痛(いた)みは年を重ねるごとにひどくなり、夜中に眠れなくなるほどでした。2011年秋、人工関節を入れる手術をして、やっと痛みを感じずに歩けるようになりました。

 「原爆で受けた傷は一生続く。戦争が起きそうになったら何としても食い止め、罪のない子どもたちが不幸を背負(せお)わないようにしたい」と力を込(こ)めます。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

広島市立第一高等女学校

「原爆」の文字使えず

 広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高、広島市中区)は、市内で最も多くの原爆犠牲(ぎせい)者を出した学校として知られています。

 1945年8月6日、木挽(こびき)町(現中区中島町)一帯で建物疎開(そかい)作業をしていた1、2年生(12、13歳)541人と、教職員7人が被爆し、全員亡くなりました。ほかの場所にいた上級生や教職員を含(ふく)めると、原爆で命を落としたのは、676人に上ります。

 原爆慰霊碑(いれいひ)は48年、校庭に建立されました。碑には3人の少女の姿(すがた)が刻(きざ)まれ、真ん中の子は、相対性理論(りろん)を表した「E=MC2」と書かれた箱を持っています。当時の日本は連合国軍の占領(せんりょう)下。原爆被害(ひがい)について表立って話しにくく、原爆という文字が使えないため、原爆製造にも応用されたアインシュタインの相対性理論を記したと言われています。

 慰霊碑は57年、平和記念公園(中区)に近い平和大橋西詰めの平和大通りの緑地帯に移されました。市女の生徒たちが建物疎開作業をしていて被爆死した場所の周辺です。

 市女は48年に廃止(はいし)され、今は舟入高になっています。

◆私たち10代の感想

誰にも差別はしない

 足が不自由になった幟建さんは、陰口(かげぐち)を言われたことがありました。そのたび、「私の足を返してほしい」と思ったそうです。自分が望んだわけではないのに、とても心苦しかったと思います。どんな人に対しても差別をしないことは大事です。僕は、誰(だれ)にでも同じように接し、友達を増やしていきたいです。(中3・中原維新)

互いに譲り許し合う

 「お互(たが)いに譲(ゆず)り合い、許し合うことが大切」。長年、保護司をしてきた幟建さんの言葉です。もしみんなが同じ気持ちで行動すれば、世界で起きている争いの多くは解決し、新しい争いが生まれることはないはずです。私も、まずは自己(じこ)主張ばかりせず、周囲の人と良い関係を保てるようになりたいです。(高2・井口優香)

◆編集部より
 専門学校へ通っていたころ、幟建さんは原爆で負った右膝のけがを治すため、手術を受けました。しかし、失敗。その後、接骨院に通ってマッサージを受け、1年かけて正座ができるようになりました。「娘に振り袖を着させ、お茶会に出席させたい」という母の夢をかなえることができました。しかし、完全に治った訳ではありませんでした。けがの影響で右足が2センチほど短く、長時間歩けません。夢だった富士山登山も諦めました。

 左肩にできた大きな傷を見られるのも嫌で、ノースリーブや水着を着ることはできませんでした。結婚差別はありませんでしたが、子どもが生まれたときは、手足の指が5本そろっているか、確認しました。「原爆に遭っていなかったら、どんな人生を送っていただろう」。幟建さんは取材中、そうつぶやきました。原爆で父を亡くし、健康な体も失った幟建さん。何の罪もない人から、当たり前の日常を奪ってしまうのが戦争、そして原爆なのです。(増田)

(2014年1月13日朝刊掲載)

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