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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <3> 爆心地

■記者 西本雅実

太田睛(ひとみ)さん(57)=広島市安佐北区可部東3丁目

 しばらく考え込み、こう口にした。「運命のなせる業だったんでしょう」。爆心地、つまり原爆がさく裂した中心直下から500メートルで被爆しながら奇跡的に助かった。人の意思を超えた「運命」という言葉しか思いつかない。

 広島市の中心部、袋町国民学校(現袋町小)の2年生だった。イガグリやおかっぱ頭の1、2年生ら60数人は、半分イモ畑になった校庭に集まり、取り壊された木造校舎の跡片付けを始めていた。上級生は春から学童疎開でいなかった。

 「たまたま素足でいたんです。先生から『危ないぞ』と言われてゲタ箱がある地下室に降り、靴を手に駆け足で階段を上がる途中でしたね」

 意識を失い倒れたのか。校庭にいた級友らがどこへ消えたのか。いくら記憶のひだをたどってもはっきりしない。

 覚えているのは、<鉄筋三階建ての校舎地下室から外に出た時には日がかんかんと照っていた><水をかぶり、大人が逃げる方へひたすら付いて行った><途中、横倒しのまま燃える電柱に立ちすくむおばあさんがいた><その夜、比治山から見た不気味に街を染めるぐれんの炎>…。忘れようとしても忘れられないコマ切れのそんな光景だ。

 昨年、仏教でいう50回忌を営んだ。父悟さん=当時(45)=と母カメノさん=同(44)=をはじめ姉や弟、9人家族のうち実に6人が中区幟町の自宅などで亡くなった。

 「話したところで今さらどうなるわけじゃなし、思い出したくない…」

 家族の話から被爆後の人生になると、口調が重くなる。爆心地で生き残った8歳の少年の心の傷は、半世紀を経ても完全にはいやされていない。

 親類に引き取られた兄や姉を横目に、広島湾に浮かぶ県戦災児教育所(現似島学園)へ送られた。「運命」を自らの手で切り開く日々が続いた。爆心地を再訪したのは、あの日から7年後、原爆慰霊碑が除幕された1952年の平和記念式典が初めてだった。

 同じように親を失った児童・生徒5人が、そろって慰霊碑の除幕をした。「そう言えば一緒にラジオのインタビューに答えた女の子がいた。どうしているのか…。いや、向こうも会いたくないでしょう」。現在の職場である広島市安佐南区の可燃物焼却工場で、そう断じた。

 写真店経営からタクシー運転手を経て、市職員に。被爆者の多くの例に漏れず、後ろを振り返る暇もなく生きて来た。妻の皙子さん(52)と2児をもうけ、気がついてみれば孫を抱く年になった。

 4年前、胃にがんが見つかり都合4回に及ぶ手術で胃を全摘した。以来、好きだった酒もぴたりとやめた。

 袋町国民学校の地下室で助かった児童はほかにもう2人いる。3人は被爆25年の年、母校で再会した。現在、1人は大阪市に住み、もう1人は島根県ですし店を営み一昨年、57歳で亡くなった。胃がんだった。

 「気の毒だと思うけど、偶然の一致でしょう。そうじゃなかったら被爆者みんな胃がんだらけになる。私自身はがんが被爆の影響とは一つも思わんですね」

 別れ際、そう自分自身に言い聞かせるように努めて明るい声を上げた。


▽メモ
 広島大原爆放射能医学研究所の1972年の半径500m爆心復元調査によると、原爆投下時、爆心地にいた人は3,662人。うち78%がその日に、生き延びた人も97%が9月末までに死亡。生存者は59人だった。

(1995年1月5日朝刊掲載)

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