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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <5> 平和巡礼

■記者 岡畠鉄也

英宏昌(はなぶさひろまさ)さん(51)=香川県善通寺市与北町

 30年余りの歳月は、ロンドンのガンジーホールで「ノーモア・ヒロシマ」を訴えた学生服の少年を、温和な面立ちの紳士に変えていた。善通寺市で3代続く千代歯科医院。朝の淡い日が差し込む治療室で忙しく立ち回る英さんの、平和巡礼団員として世界を歩いた過去を知る人は少ない。

 「あの巡礼は私の原点。多くの人と出会い、人の痛みを知った。今は平凡な歯科医だけど、新聞に原爆のことが載ると気になる。心のどこかでヒロシマにこだわっているのでしょうね」

 広島の原爆投下は2歳の時。祖母と福山に疎開していた。母は被爆死、父も復員後間もなく病死し、両親の思い出はない。巡礼団に選ばれたのもそんな理由からだった。「でも、なぜ僕だったのか。孤児なんて、無数にいたわけでしょう、あのころの広島には」

 復興のつち音が響く広島。その片隅で祖母と肩を寄せ合った英少年の思い出は、ほろ苦い。すきっ腹を抱え街をぶらつく。母親の呼ぶ声に遊び仲間が1人減り、2人減る。薄明かりの駅の待合室。ひざを抱え、行商から帰る祖母を待った。

 いつ崩れてもおかしくない、そんな少年の心をつなぎ止めたのが賛美歌の調べ。土曜日になると流川教会に通った。同じ境遇の子供たちがいる。何よりも米国から届く缶詰や手紙が楽しみだった。原爆孤児を仮の親となって支援しようという精神養子運動。英少年にはフィルムメーカー、コダック社の職場が精神親を引き受けてくれていた。

 広島カープの選手に会った感動を手紙につづったことがある。間もなく、バットとグラブが届いた。「米国の両親が君を見守っていてくれる」。牧師の言葉が素直に心にしみた。

 巡礼の話が舞い込んだのは広島商高卒業の直前だった。被爆者でもなければ平和運動にかかわりもない。そんな少年が選ばれたことに対する風当たりは強い。

 いたたまれぬ思いを抱きながら、広島「折鶴の会」の河本一郎さん(66)に連れられ、何人もの被爆者と会った。バラックが密集する片隅で1人暮らす老女。一瞬のうちにすべてを狂わされた人生を語る彼女に、祖母の姿を重ねた。ヒロシマが見えてきた。旅立つ決心がようやくついた。

 5カ月の間に150回を超す会合に参加した。移動時以外は、いつも集会という強行日程である。

 米ロチェスター市の集会でのこと。70人の笑顔が並んでいる。司会者が声を張り上げた。「われらの息子ヒロが帰ってきた」。会場を埋めたのは精神親たちだった。「よく頑張ったな」。涙ぐむ親。少年も泣いた。

 巡礼がヒロシマへの目を開いた。国際関係の仕事をめざし米ウィルミントン大に留学したのもそんな思いから。だが、人生設計は妻の実家を継ぐため変わった。

「巡礼まで行かせてもらったのに」。ヒロシマを離れることに負い目を感じる。

 そんな気持ちを救ったのは、一緒に巡礼に出た平和運動家バーバラ・レイノルズ夫人のひと言。「ヒロ、医者として人の苦しみを和らげることも平和に通じる道よ」。27歳、新しい平和運動の形を見つけた。

 「揺れる度に僕を引っ張ってくれる人がいた。愛のぬくもりを実感し続けた50年でした」。7人の子供と言いかけ、9人と訂正した。実は妻の敦子さん(51)が夫に内証で、ホンジュラスとインドの孤児の精神親になっていたのだ。妻の気持ちがうれしかった。

 「絵が届くんですよ。私が子供のころに描いたと同じような絵が」


▽メモ
 ヒロシマ平和巡礼は核廃絶を訴えるため、平和運動家バーバラ・レイノルズ夫人らが計画。1962年夫人と被爆者の松原美代子さん、英さんが米ソなど14カ国を訪問。1964年の第2陣にも英さんは参加、8カ国を回る。

(1995年1月7日朝刊掲載)

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