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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <6> 舞踊一座

■記者 西本雅実

天津龍子さん(68)・陽子さん(67)=東京都台東区東上野6丁目 

 「女ばかりで生きる」。そんな見出しが付いた32年前の記事と写真だけが、取材の手掛かりだった。

 今はない浅草松竹演芸場の楽屋で撮ったらしい写真には、踊りの舞台を終えた女性6人が納まる。

「天津龍子一座」。全員が原爆に遭い、座長が副座長と一緒に4人の姪(めい)を育ててきた、と記事にある。彼女たちは今どこで何をしているのか・。

 ようやく訪ね当てた天津龍子さん、本名加藤志都江さんは浅草にほど近い東京の下町に住んでいた。玄関に「舞踊研究所」の看板がかかる。舞踊劇団はもう解散していたが、女学校時代からの親友陽子さんと姪4人の6人は今も一緒に暮らしていた。

 「振り返ればよく生きてきたと思いますよ。でもあんまりくよくよしたことはないね」。元座長の龍子さんが歯切れよく語れば、元副座長の陽子さんは「楽天家ぞろいだから…」と軽く相づちを打った。

 6人みんな広島市中区千田町の龍子さんの実家で被爆した。一緒だった龍子さんの姉は翌年、女の子4人を残して死去。相前後して姉の夫の戦死公報が届く。両親を早く亡くした18歳の龍子さんの肩に、九歳を頭に幼い姪たちの行く末がかかった。

 「あのころは無理もないけど、親類の大人たちはそっぽを向いてしまってね。それならと思って…」。龍子さんの決意に、陽子さんも知らぬふりはできなかった。

 とはいえ、大の男すら仕事のあてのない時代。2人は幼いころから習い覚えた日本舞踊を生かし旅回りの一座を組んだ。食べ物に比較的不自由しない瀬戸内の島々や山陰を回り、姪たちも中学を卒業する順に舞台に立った。

 旅暮らしに見切りをつけ、大衆娯楽のメッカ浅草へ出たのは1956年。ひたすら踊りに打ち込み、やがて芸術祭で度々賞を受けるようになる。マスコミの耳目も集めた。が、その度に「原爆」や「孤児」という形容詞がついた。

 姪の最年長、井筒郁江さん(58)が当時を振り返る。「孤児には違いないけど、そう言われるのは嫌でした。親のない寂しさを感じさせまいとお母さんたちは一生懸命でしたから」。姉妹4人は龍子さん、陽子さんを今でも「お母さん」と呼ぶ。

 それにしても、この間だれ1人、踊り以外の仕事や平凡な結婚生活を考えなかったのだろうか。ぶしつけな質問に龍子さんは「原爆のせいと思う。皆、疲れやすいし無理がきかない。それならいっそ好きな芸で人生を全うしようと…」。

 龍子さんは18年前に大手流派の名取を返上し、6人で新たに天津流を興した。現在、200人ほどの門弟を持つ。

 敷地83平方メートル。自宅兼けいこ場の3階建てビルは、あの炎の中から手を取り合い、過酷な運命を乗り越えて来た女たちの結晶である。

▽メモ
 厚生省の1950年調査によると、父母の戦死・戦災死による孤児(満18歳まで)は全国で28、000人。病死など含めると123、000人に上った。地方別では広島が5、975人と最も多かった。

(1995年1月8日朝刊掲載)

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