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検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <7> 被爆医師

■記者 福島義文

浜田忠雄さん(66)=広島市西区己斐本町三丁目

 脈が止まって13時間後、夜明けとともに父の遺体は広島原爆病院の解剖台に乗った。主治医としてメスを握る。あご下から真下へ約70センチ、一気に切った。冷たい体から、固まり切っていない血がにじんだ。スタッフが解剖記録に「浜田頓蔵 73歳」と書き込んだ。被爆者だった父は生前「お前の研究のため、わしの体を刻め」と言い残していた。

 1965年から20年間勤めた原爆病院で、手掛けた病理解剖は被爆者を含め約2000体。内科診療の傍ら、3日に1体である。「一つでも多く被爆者の解剖症例を残しておきたかった」。一線を退いた初老の医師は、原爆医療の基礎研究にかけた執念を今そう語る。

 苦しみ抜いた被爆体験が、医学への道を決めた。爆心750メートルの電車内で被爆。旧制広島高校1年だった。頭髪は抜け、高熱で意識混濁が続いた。白血球が減り、歯ぐきが腐った。原爆白内障で2年後には左目を手術した。進路に迷いはなかった。九州大医学部で10年間、白血病を研究したのも、原爆への怒りだった。

 病理解剖は光の当たらない分野である。だが、これがないと治療方法は探れない。原爆病院には被爆時から20年間の症例数が少なかった。それだけに力が入った。

 父の解剖もその一つ。自宅で療養中、点滴していて急死した。動脈硬化と初期肺がん。解剖したら胃に出血があった。被爆との因果関係は定かでないが、病院で443番目の「解剖記録」として、所見を克明に書きとめた。1966年7月9日のことである。

 「死者を刻むのはむごいことです。情を捨て、死因究明の一点に集中しないと解剖はできません。まして父親では」。取り出した父の臓器は切片にされ、2カ月後にガラス板の標本になった。

 放射線の影響には大筋の傾向がある。被爆からしばらくして白血病が多発し、今は甲状せん、肺、乳がんなどの発生も多い。直接被爆者が減る中で、その病理データは欠かせない。「僕一人の解剖数はたいした数じゃない。しかし広島の病院の記録を集めれば、何か言えるんじゃないか」

 その病理標本を使って被爆研究する若い芽を待っている。「ですが、医学研究も業績次第。研究者は目新しい課題に飛びつく。コツコツ基礎研究する仕事は、今の若い人には向かんかもしれませんがね」

 原爆直後の患者治療に当たった医師らに続く「第二世代」の被爆医師。「何かやるために生かされている」との責務に背中を押され続けた。電車があと100メートル爆心に近づいていたら命はなかった。

 1985年末、臨床検査部長で退職。内科医を開業し、老人患者らを診る。以来、解剖はやらないが腕に自信はある。「それでも母だけは解剖できなかったでしょうね。仮に僕が現役でも」。5年前、やはり被爆者の玉子さんが92歳で死んだ。リウマチと骨粗しょう症で寝たきり。骨と皮だった。「かわいそうで…」。好々爺(や)になった被爆医師の目が、みるみる赤くなった。

  ▽メモ
 広島原爆病院の病理解剖数は昨年12月31日現在、3,378体。全国的に解剖数は、担当医師不足や検査機器の発達などで減少傾向にある。しかし各病院の症例は日本病理学会が年ごとにまとめ「日本病理剖検輯報」として発行される。

(1995年1月9日朝刊掲載)

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