×

検証 ヒロシマの半世紀

ヒロシマ50年 生きて <8> 原爆小頭症

■記者 岡畠鉄也

戸田礽美(なるみ)さん(48)=広島市安佐南区古市3丁目  福祉作業所から戻ると、礽美さんはインコとおしゃべりを始める。「リリー、ただいま。ボーナス、ことしは出んのと…」。ほの暗い玄関で、その日の出来事を楽しそうに話す。作業所のこと。友人のこと。長い時は30分以上も続く。

 リリーは3羽目。17年前に父親の隆夫さんを胃がんで失い、仕事に出かけた母親ユキヨさん(74)を待つ寂しさをいやしてくれたのが小鳥だった。

 「でも、メスは物を言わんけえ、おもしろうない」。てれ笑いを浮かべる彼女の頭には白いものが目立つ。身長146センチ。簡単な読み書きはできるが、計算は苦手。全国で24人いる原爆小頭症患者の1人だ。

 ユキヨさんが被爆したのは爆心から約800メートル離れた鉄砲町の自宅だった。壊れた建物からはい出し、迫る炎を避けるため川に逃れる。おなかにいる3カ月の子を気遣う余裕はなかった。出産は翌年の2月。被爆の後遺症でユキヨさんの毛髪は全部抜けていた。

 やせこけた小さな赤ちゃん。「ピカの子じゃけえ、育ちゃせんよ」という周囲の声も母親には聞こえない。出ない乳の代わりにご飯をすりつぶし配給のミルクにまぜる。ひきつけを起こし、あまり言葉をしゃべらないのが気になった。

 5歳の時である。広島赤十字病院での診断に耳を疑った。被爆の影響があるというのだ。「あの子はおなかの中にいたんですよ」。思わずそう叫んだ。

 骨髄性再生不良貧血という病名を聞いたのは、ずっと後のこと。内職のユキヨさんの横で、よく泣きながら寝ていた。「戦争とは関係ない子がなんでこんな目に」。泣きはらした小さな顔を見るのがつらかった。

 「かわいそうじゃが、このまま死んでくれた方がええと思うたこともありました」。不思議なことに小学校の卒業式で「皆勤賞」をもらった。気分が悪くて寝ていても、少しよくなると学校に行く。「同級生に会いたかったんでしょうね」

 礽美さんが通う「あさ作業所」は2人が暮らすアパートから歩いて3分。大きくとった窓から冬の日が差し込む作業場で、礽美さんは黙々とクッキーを焼いている。作業所が開所した10年前から通い、18人いるメンバーのリーダー格。クッキーの商品化に向けた試作を任されている。

 「仕事をしている時が一番楽しい。カラオケにも行くよ。歌う曲?『川の流れのように』かな」

 中学を出て府中市の縫製工場に7年勤め、寮生活も経験した。「○日帰る」とだけ書いた手紙に娘の成長を実感した。「私は自信がなかったんですが、お父さんの決断のおかげ」、ユキヨさんが顔を上げた。視線の先に、礽美さんが「父の日」に描いた少年のような隆夫さんがほほ笑んでいた。

 時の流れは冷酷である。確実に老いる自分。体も決して丈夫な方ではない。3人いる兄弟が「かあちゃん、心配するな」と言ってはくれる。だが、万一を考えると胸が締め付けられる。

 「あの弱い弱い子が、よう生きてこられたと…。何を考えてここまで成長してきたんでしょう」。インコのリリーを肩に乗せた礽美さんが振り向いた。柱時計の時を刻む音が響く。「この子より先に死ぬわけにはいかんのです」(おわり)

▽メモ
 原爆小頭症は妊娠初期の胎内で高線量の原爆放射能を浴び、知能障害を伴った重度の小頭症をいう。医療特別手当のほか小頭症手当など援護は金銭給付が中心で、親の老齢化に伴い「終身保障」を望む声が切実になっている。

(1995年1月10日朝刊掲載)

年別アーカイブ