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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <1> 報道

■報道部 岡畠鉄也

 「われわれは下手な魔法使いのように、解き方を知らずに魔法をかけるはめに陥った」―。1945年、広島への原爆投下を聞いたイギリスの劇作家バーナード・ショーは、ロンドン・タイムス紙にこう批評を寄せた。

 彼の予言通り、人類は核時代という滅亡と背中合わせの呪(じゅ)文に縛られたまま、50年が経過しようとしている。かつて死臭とがれきに覆われた被爆地ヒロシマは今、高層ビルが立ち並ぶ近代都市に生まれ変わった。その復興の歩みは、核時代を生きる人類にとって一筋の光明と言えないだろうか。

 広島がヒロシマたりえたのは、市民のたゆまざる努力の一方で、原爆の非人道性に強い衝撃を受けた世界の良心の支えがあったからではないか。

 ヒロシマ50年の歩みを振り返る第一歩として、被爆の惨状を伝えた「報道」の足跡、市民を「救援・援助」することにより魔法の解き方に挑んだ人々を追った。


人類への警告 第一報 バーチェット記者

 私は世界への警告としてこれを書く。最初の原子爆弾が街を破壊し世界に衝撃を与えた30日後の広島では、人がなおも死んでゆく。無傷だった人さえもが、何か原因不明の理由で死んでいる。それは神秘的な、そして恐ろしい死であった。私はそれを「原爆の疫病」としか述べることができない・。

 1945年9月5日、こんな書き出しの記事が英紙デイリー・エクスプレスの一面を飾った。発信人はウィルフレッド・バーチェット記者。連合国側の記者として初めて広島の地を踏み、放射能の恐怖を明らかにした大スクープだった。

 「原爆は非人道的」と、投下直後から宗教家や科学者らが非難の声を上げた。新聞には「われわれには他人を戦争犯罪人と呼ぶ資格がなくなりました」(サンフランシスコ・クロニクル)との投書も寄せられた。しかし、これらの非難は自らの倫理観に基づく想像上のもので、バーチェット記者の報道で初めて非難の正当性が裏付けられた。

 バーチェット記者が広島への原爆投下を聞いたのは沖縄だった。米軍の簡易食堂に並んでハンバーガーの支給を待っている時、ラジオが興奮した口調で新型爆弾の投下を告げていた。将校から原子爆弾であると聞かされた瞬間、彼は「日本に狙いを定めるなら、これが最初の標的になると心に刻んだ」(自著、広島TODAY)

 他の記者が戦艦ミズーリでの降伏文書調印式に飛び回っていた9月2日、彼は広島行きの列車にいた。満員の客車で敵意丸出しの視線に耐えながら翌朝、広島に到着する。

 死臭の漂う市内。魂を失って幽霊さながらに行き交う人々。広島逓信病院で信じ難い話を聞いた。

 「遺骨を探すため市内に入っただけで原爆症になる者があり、重症者は死んでゆくのです」

 川には白い腹を見せた魚が浮いている。死体を焼く煙があちこちに見える。がれきの中に腰を下ろし、タイプライターをたたいた。

 広島第1報は「原爆を国際管理せよ」という声の高まりを懸念する軍部を刺激した。UP通信も9月5日に放射能による死者が続発している事実を配信するに及び、連合国軍総司令部(GHQ)は「9月6日現在、原爆障害で苦しんでいる者は皆無」との公式見解を発表。ニューヨーク・タイムズもW・ローレンス記者の「広島の廃虚に放射能なし」との記事を掲載した。

 ローレンス記者はロス・アラモスでの原爆実験を唯一目撃した科学記者で、実はバーチェット記者の数時間後に軍用機で広島に入っている。しかし、彼の関心は原爆の威力に絞られ、市民や病院を取材することはなかった。

 結局、バーチェット記者の現地第1報は、核兵器が持つ残虐性の核心をついた優れたルポであるが故に、国際政治の黒い潮に巻き込まれ、戦争終結直後の平和到来という歓喜の中でかき消される。検査入院を強いられ、その最中に広島の惨状を撮影したフィルムが入ったカメラが盗まれるというおまけまでついた。


▽ハーシー記者 志を受け継ぐ

 1年後の1946年8月末、ニューヨークのニューススタンドはちょっとした興奮に包まれていた。どの客もニューヨーカー誌を買い求める。5月に広島を訪れたジョン・ハーシー記者が六人の被爆者のインタビューを基にしたルポ「ヒロシマ」で全誌を埋めているのだ。

 閃(せん)光の下にいた人間の声が初めて明らかにされた。ニューヨーカー誌は1日で30万部を売り尽くし、100種類以上の新聞に転載された。放送局がドラマ化するなど「ヒロシマブーム」は2年間続く。アインシュタイン博士は「人気があると呼ぶべきではなく、人道の問題である」と語り、自ら2000部買い知人に配ったという。

 米ギャラップ社が1947年に実施した世論調査によると、原爆開発を「悪」と答えた人は38%。1945年(17%)のほぼ倍にまで増加した。バーチェット記者が発した「人類への警告」は、ハーシー記者によってやっと人々の心に届いた。

 米ソ冷戦が激化するなかで、これらの報道が広島への同情とあいまって無数の反原爆行動を生み出す。それはやがてノーモア・ヒロシマズ運動から原水禁運動に至る平和をめざすうねりにつながって行く。


ノーモア・ヒロシマの生みの親は…

 核時代の警句として世界の共通語になった「ノーモア・ヒロシマズ」の生みの親は、UP通信(現UPI)の東京特派員だったルサフォード・ポーツ氏である。

 ポーツ記者は1948年3月に東京で、世界宗教者平和大会の広島開催を計画していた広島流川教会の谷本清牧師をインタビュー。「広島の悲劇を世界のどの国にも再現させたくない」との言葉をノーモア・ヒロシマズと英訳して打電。駐留米軍紙「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」のほか米国内の新聞に掲載された。

 その後、米オークランドの教会管理人アルフレッド・パーカー氏が平和運動のスローガンに転用、一気に世界に広まった。ポーツ記者は中国新聞の取材に対し「第一次大戦後欧州で唱えられた『ノーモア・ウォーズ』をもじった」と述べている。

 バーチェット記者が生みの親との説があり、そうした記述の原爆関係の本も多いが、広島からの第一報にはそうした言葉はなく、広島を再訪した際にも自ら明確に否定している。


70年不毛説唱えたのはだれ

 原爆が投下された直後の広島に流れた「70年(75年)生物不毛説」の発端は、原爆製造にかかわったハロルド・ジェイコブソン博士の談話である。1945年8月8日付ワシントン・ポスト紙に掲載された。

 ところが、記事が出た当日になって博士はその説を否定する。広島大原医研の宇吹暁助教授によると、米連邦捜査局(FBI)からの圧力があったという。原爆の非人道性を糾弾する声の高まりを抑えるため、国内向けは締め付け、日本向けは謀略的意図も込めてそのまま流したという。

 日本では毎日新聞(8月23日付)など各紙が残虐性を示す根拠として不毛説を報道、原爆被害の底知れぬ恐怖を広く知らせた。

 原爆製造のマンハッタン・プロジェクトと連合国軍総司令部(GHQ)が九月に広島に派遣した調査団が70年説を否定したが、以後GHQは原爆被害に対する厳重な報道統制を行い、9月18日に朝日新聞に48時間の発行停止を命じ、19日にはプレスコードを指令する。


≪中国新聞 あの日再録 48・8・1≫ NO MORE HIROSHIMAS

 原爆投下から3年後、1948年8月1日の中国新聞1面は、広島の復興ぶりを伝える全紙幅の写真に「NO MORE HIROSHIMAS」という英語の見出しを重ねた大胆な紙面。この時期、原水禁運動のさきがけともいえるノーモア・ヒロシマズ運動がピークを迎え、市民の復興への情熱と平和を願う気持ちが紙面からほとばしる。その記事。

 思い出の8月6日が4度巡ってくる。一瞬にして死の街と化した広島。75年間不毛の地ともいわれたあの街が「ノーモア・ヒロシマズ」の叫びとともに永世平和都市へとたくましい息吹を始めた。

 見渡す限り瓦礫(がれき)と雑草のばくばくたる荒野となった街もあれから満3年。約5万戸の家屋が並び、戦前の7万6000戸にあともう一息。人口も24万6000人を数え、その復興の進行ぶりはこの地を訪れる外国人を驚かせている。

 街には近代的な商店街、生産復興の意気も高くエンジンの音響く工場街、平和を楽しむ小市民の住宅街。人々の服装もサッパリとして顔色も生色に輝き、世界のヒロシマは日一日と大きく育っていく。

 この驚異の復興こそ人類の平和を欲求する素朴な人間の姿であり、ヒロシマはこれら平和を愛する人々の努力の結晶でもある。爆心地付近の産業奨励館のドームだけが、あの日の面影を残し、後悔と希望ヒロシマの象徴となり、さらに原子力時代という偉大な新世紀のれい明を告げている 。

<参考文献>原爆三十年(広島県)▽広島新史歴史編(広島市)▽日本印象記(フロイド・シュモー著)▽原水爆時代(今堀誠二著)▽広島TODAY(ウィルフレッド・バーチェット著)▽ヒロシマに、なぜ(小倉馨著)▽ドクター・ジュノー武器なき勇者(大佐古一郎著)

(1995年1月22日朝刊掲載)

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