×

検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <2> 平和式典

■報道部 西本雅実

 川の街、広島市のデルタの真ん中に広がる平和記念公園とそれに接する平和大通り。幅100メートルの大通りから原爆資料館を正面に見ると、原爆慰霊碑、原爆ドームが北に真っすぐに並ぶ。だれもが無言のうちにヒロシマの叫びを聞き取る。

 この地は1発の原子爆弾で消し飛んだ爆心地である。文字通り廃虚の中から12万2千平方メートルに及ぶ公園、記念施設が建設され、永遠の平和を誓う場となった。

 この壮大な公園計画には、日米の若き2人の芸術家が持てる才能と情熱を傾注した。丹下健三さんとイサム・ノグチさん。しかし計画は国民感情や時代の波にほんろうされた。一方、平和式典は、占領軍の圧力に左右される。ヒロシマ建設とその訴えに秘められた史実を探る。


1950年 幻の平和式典 占領軍の圧力で中止

 毎年8月6日の「原爆の日」に営まれる広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式―。始まりは1947年の広島平和祭までさかのぼる。

戦争のない、核兵器のない世界を訴え続けてきたその平和式典が、一度だけ中断した。日本占領下の1950年8月6日である。なぜ平和式典が開かれなかったのか。その「空白」に迫る。

 それは突然だった。被爆5周年を目前にした8月2日、原爆の痕跡が残る広島市役所で広島平和協会の常任委員会が開かれた。出席者24人はその場で平和祭中止を申し合わせる。

 平和協会は市や広島商工会議所、町内会、文化団体などでつくり、会長は市長が務めた。式典の中止は今なら一大事件。しかし翌日の新聞は、奥田達郎助役が出張中の市長に代わって発表した通り一遍の中止談話を載せただけだった。

 「8月6日の式典は都合により取やめとなった。当日は反省と祈りの日として市民各位に敬けんな一日を送っていただきたい」。この要領の得ない「都合」とは何を意味するのか?

 当日の委員会は、市の保管文書によると「民事部に於(お)ける交渉経過報告」を聞き、「新情勢に處(しょ)して此(こ)の際式典を取止める」とある。民事部とは、呉市にあった中国民事部のこと。連合国軍総司令部(GHQ)に直結し、占領軍命令の実施状況を監視、報告していた。

 「占領軍から文句がついたと公には言えないでしょ。彼らがそうしろと言えば従うしかなかった」。当時、市長室主任として委員会に出席した藤本千万太さん(76)=広島市安佐南区=は「都合」に潜む意味をそう説明する。

 藤本さんの記憶では、席上、民事部と交渉に当たった奥田助役から詳しい説明はなかった。出席者から問いただす声もなかった。「新情勢」つまり「朝鮮戦争による占領軍の意向」と聞くだけで十分だった。「為政者の言いなりになる戦前の意識がまだ続いていた」

 6月25日、朝鮮半島で戦火が起こる。2日後には在日米軍が出動。デモ・集会は既に禁止されていた。7月に入ると、連合国軍最高司令官マッカーサー将軍が国連軍総司令官に就く。戦火の拡大で米国、ソ連の原爆使用が取りざたされ、冷戦下、東西の緊張が一気に高まる、という時だった。

 そうした中、平和協会長の浜井信三市長は6月14日からスイスにいた。米のフランク・ブックマン牧師が提唱した世界的な道徳復興の平和運動、MRA(道徳再武装)運動世界大会に出席するためであった。日本の参加者48人の中には若き日の中曽根康弘代議士もいた。

 被爆市長は行く先々で、原爆について見解を求められる。7月16日には仏ルモンド紙のインタビューに「朝鮮での原爆使用には、声を大にして反対する」と答えた。

 発言はGHQの検閲下にあった国内の新聞にも転載される。しかし一方で、GHQが危険視した人物のレッドパージ(追放)が24日、報道機関にも及んでいる。そのせいか、式典中止をめぐる論調は「さわがしい催しを行わなくなっても広島市民の気持ちは十分に理解されている」(8月6日付中国新聞)と、前年までと比べ大きく様変わりした。

 浜井市長は欧州から米大陸を横断し、式典中止の連絡をロサンゼルスで聞く。8月6日はロス市長らも出席したMRA主催の「広島の夕」。この晩さんの会にゲストスピーカーとして迎えられた。

 「われわれ広島市民はいま何人もうらんでおりません。ただ求めたいのは、すべての人が広島で何が起こったか、再びそれがどこにも起こらないよう努力していただきたいと言うことであります」

 20分余の演説はCBSラジオから全米に中継された。通訳は、後に米アポロ宇宙船月面着陸などの同時通訳で知られる西山千さん(83)=東京都在住。彼はGHQ民間通信局を休職し、市長らに同行していた。「慎重な言い回しながら、浜井市長のスピーチは、原爆を二度と使ってはならないという気持ちがあふれていた。聴衆からも拍手が起き、感銘を呼んだ」

 「原爆投下が第二次大戦終結を早めた」とデモクラシーの勝利をうたった国での原爆反対の訴え。西山さんは、原爆に関する発言が米国への批判がましくならないよう、市長が心砕いていたのを鮮明に記憶している。ユタ州生まれで大学院を出た西山さんも、慎重を期して事前に市長の演説原稿を読み、全文を英訳してマイクに向かった。

 敗戦から5年。1950年という時代は、それほど気を使わなければならない時期だった。

 平和式典は「幻の夏」を挟み翌年、原爆死没者慰霊祭・平和記念式の名称で再開された。その朝、米空軍機が爆心地上空を飛び、供養塔に花輪を落とした。朝鮮戦争出撃のパイロット24人が広島県などの招きで参列した。今では想像すらできない。岩国基地からの要請があったと言われる。

 そんな苦渋や紆(う)余曲折の歴史を経て、今日の平和式典やヒロシマの訴えは形づくられたのである。


平和式典を提案したのは NHK広島中央放送局長 故石島治志さん

 平和式典の提案者は、石島治志NHK広島中央放送局長―。浜井市長は1955年、自著「広島市政秘話」にそう書いている。

 1947年に再発足した市観光協会の席上、委員だった石島放送局長は「8月6日を中心として、大々的に平和祭をやることなどは、国際的にも相当アピールするのではないか」と提唱した。その6月に広島平和祭協会が誕生し、石島さんは副会長に就く。

 第1回の式典は午前8時から30分間、ラジオで県内に実況放送、翌年から全国放送になる(「NHK広島放送局60年史」)。1950年6月、転勤で広島を去るまで、石島局長はヒロシマを全国に広める立て役者となった。

 「父は若いころから理想家肌でした」と、長男の晴夫さん(68)=東京都在住。鹿児島県に生まれ、東大社会学科時代は志賀義雄氏らと親交を結び、困窮者を助けるセツルメント運動にかかわっていた。

 当時、広島高等師範(現広島大)の学生だった晴夫さんは、平和祭提案で父と議論になったと言う。「被爆者の感情を逆なでするのでは」と懸念する晴夫さんに「原爆をうやむやにしてはいけない」と、心情を語っている。「式典中継も『放送人の使命』と意気込んでいました」  石島さんは生前、8月6日の黙とうを欠かさなかったという。亡くなったのは1992年。93歳の大往生だった。


千羽づる10万羽を上空からささげた 広島県山県郡加計町 磨野経則さん(73)

 「ええ、確かに私です」。1962年の平和式典を伝える新聞記事に「折りヅル舞う平和公園」とある。一人で折った10万羽もの千羽鶴(づる)をセスナ機から式典会場にささげた、と伝えている。

 妻キミエさんは、7人家族のうち両親や兄弟5人が被爆死。中国・広州から復員後に結婚した磨野さんも伯父ら親族を失っていた。「二度と戦争はあってはいけん。その気持ちで始めたんです」。折り紙を作るための裁断機を購入。今も住む広島県山県郡加計町の自宅から列車で片道50分ほどの通勤時間や、休日を利用して千羽鶴を折った。10万羽を折り上げるのに3年の歳月を費やした。

 当日は快晴。月給をはたいて初めて乗ったセスナ機は、式典直後の午前8時半から平和記念公園を旋回する。1周、2周…。平和を願う折り鶴が参列者3万人の頭上に舞い降りた。

 「飛行場で待っていた家内と公園に戻ると、不思議なことに鶴が一つも見当たらない。参列の人たちが拾ってくれていたんです。感激しましたね」

 そのキミエさんも1975年、がんのため49歳で亡くなった。「近ごろの式典は型にはまり過ぎ。総理大臣が参列するせんで気をもんでいるようでは…」と形がい化を憂える。式典もテレビで見るだけになった。


<参考文献>「人間と建築」「一本の鉛筆から」(以上 丹下健三著)▽「現代の建築家丹下健三(1)(2)(3)(4)」(鹿島出版会)▽「広島被爆40年史 都市の復興」(広島市)▽「広島県戦災史」(広島県)▽「ISAMU NOGUCHI ESSAYS AND CONVERSATIONS」▽「NOGUCHI」(BRUCE ALTSHULER)▽「AMERASIA JOURNAL」(米カリフォルニア大出版)

(1995年1月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ