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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <4> 初期医療②

■報道部 岡畠鉄也

 「患者の福祉のために、私は能力と判断力の限りを尽くして療法を施す」。古代ギリシャの医聖ヒポクラテスはこう誓った。医の最高倫理として脈々と受け継がれているこの「誓い」を阪神大震災で救護にあたる医師や看護婦の献身的な姿に重ね合わせ、胸を熱くするのは私だけではあるまい。

 50年前の広島でもそうだった。原爆という人類が初めて遭遇する惨禍に、自ら傷つきながらも「誓い」を貫き通し、倒れていった医師たちも少なくない。占領下の原爆タブーも、未知の原爆症に対して真実を突き止めようとする医師たちの情熱を奪うことはできなかった。

 初期の原爆医療に指導的立場を発揮した「東大都築外科」と医療空白ともいえる状態から後障害治療に挑んだ「ヒロシマの医師」を中心に、原爆医師の「誓い」に触れてみた。


使命感に燃えて治療 後障害に挑んだ外科医原田さん

 ロウソクの火に照らし出されたケンジ君の形相に思わず息をのんだ。被爆4年目の冬の夜。広島市中区舟入南2丁目の外科医原田東岷さん(82)が、ヒロシマの医師の宿命をはっきりと宣告された夜だった。

 父親に背負われた少年はやせ衰え、5歳というが1歳半くらいにしか見えない。頭が異様に大きい。よく見ると頭にこぶができ、ウミが流れている。耳を切開し血液を調べた。血が出てこない。ロウソクを近づけると薄黄色の液が流れていた。

 少年は爆心から約800メートルの榎町で乳母車の中で被爆した。高熱が続き頭の毛が抜ける。以来一度も健康が回復することはなかった。こぶは半年前に階段を転げ落ちたものだという。停電が回復し顕微鏡をのぞく。巨大化した白血球を見つけた。原田医師の脳裏を「白血病」の3文字がかすめた。

 外科医が白血病にかかわることはまれ。医大の講義でも10分間もなかったと記憶している。宇品の原爆傷害調査委員会(ABCC)に血液スライドを持参した。「ルーキーミア(白血病)です」。若い米の病理学者は言った。そして次の言葉に原田医師は耳を疑った。「私はこの病気の発生を待っていた」

 原爆の放射能、特に中性子が骨髄を破壊し白血病を引き起こす。続発の恐れがあるため彼が派遣されているというのだ。病理学者の言葉通り、1950年をピークに三百人近くの発病者が出る。原田医師は背筋が凍るのを感じた。

 少年と父親は原田医師の前から消えた。父親が「家らしい家で死なせたい」と、祖母の郷里に連れて行ったと聞いた。ケンジ君はその数日後に死亡する。たった4人の葬儀。死亡診断書には「肺炎」と記されていた。

 「みじめだったね。その時だよ、原爆症と心中してやろうと思ったのは」。原田医師はその後3年間に7例の白血病を見つける。

 軍医だった原田医師が帰広したのは原爆投下の翌年の春。11月になってバラック建ての病院を焼け野原の広瀬町に開業する。召集解除になった軍医や開業医らが市内にぽつぽつ小さな診療所を建て始めたころだ。被爆者は直後の急性症状はひとまず落ち着いていたが、後障害がひそかに進行していたのである。

 ケロイドという症状がある。熱傷の跡が盛り上がり固まる。その部分を切り取り皮膚を移植してもすぐ再発する。原田医師は治療方法を試行錯誤しながら「原爆症なのでは?」と漠然とした不気味さを感じた。

 連合国軍総司令部(GHQ)が原爆の機密保持を図るため厳重な情報統制を敷いていた時代である。医学関係も例外ではない。被爆直後の貴重な研究資料も米軍に没収されている。ヒロシマの医師たちは原爆症に対して白紙に近い状態で臨まねばならなかった。

 開業して2回目の秋、先輩の産婦人科医から無脳児が生まれたと聞いた。「この原子砂漠の中にはどんな悲劇が埋もれているのか」。その週末、専門の異なる医師8人が集まった。「土曜会」の発足である。

 「盲腸の手術で、死ぬはずのない患者が亡くなる」。「ブラブラ病って一体何だ…」。会費100円。会員の自宅で、医師たちは夜遅くまで目を輝かせて専門領域外の報告を聞き、数少ない資料を基に議論した。

 土曜会の議論をきっかけに、翠町の於保源作医師は「被爆者の発がんに関する研究」をABCCの調査より2年も早く手がけ、段原の中山広実医師は独自の被爆者健康手帳を考案し、地区の被爆者の健康管理を始めた。

 「原爆とがんの関係だってABCCは『笑うにも値しない』と言っていた。於保さんが長崎で発表して慌てて調査を始めたんだ。小気味良かったね」と原田医師は回想する。

 1952年、原爆乙女が東大や阪大で治療を受けることになり、新聞記者が原田医師にコメントを求めてきた。地元では治せないのかという口ぶりに原田医師は憤慨した。車に乗り合わせた爆心地の島病院の島薫院長に打ち明けた。「広島の外科会としては黙っておれんじゃないですか」

 講和条約が発効しプレスコードも解除された直後である。医師たちは「被爆者治療はわれわれで」というスローガンのもとに団結した。広島市がその年に実施した被爆者の傷害調査をもとに無料診察を実施。翌年、被爆者治療の推進母体となる広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が発足した。

 「あの時くらいヒロシマの医師が燃えたことはなかったね。今考えると米国への意地だった。原爆症はわれわれの手で治してやるというてね」と原田医師。医師の団結がやがて原爆医療法制定(1957年)の道を開く大きな力となった。

 空白からスタートした被爆者医療は、原対協発足で1つの到達点を迎えた。しかし、ヒロシマの医師にとって、それは長く苦しい闘いの序曲にしか過ぎなかった。


≪略史≫ 県内外の医師 不眠不休で救護

 広島に投下された原爆で殉職した医師は225人に上る。当時市内にいた医師の4分の3が犠牲になったわけで、一瞬のうちに医療体制は崩壊した。

 辛うじて死を免れた医師や看護婦らは自らの傷を顧みる間もなく救護に立ち上がる。その献身的な活動に呼応するように、県内はもとより県外からも医療救護班が続々と入る。岡山県の医療班が7日に到着したのをはじめ、島根、山口、鳥取、兵庫、大阪などの医師が不眠不休の救護を続けた。

 かつてない被害に原爆を直感した軍部は被爆直後から調査団を派遣する。呉海軍鎮守府調査団が当日、海軍広島調査団、技術院調査団、大本営調査団、陸軍省災害調査班が8日、京大、阪大の調査団が10日に到着する。

 理化学研究所の仁科芳雄博士をまじえた各調査団の合同研究会が10日、広島赤十字病院のレントゲン写真の感光から原爆と判定する。その日、陸軍調査班の山科清軍医少佐が初めて被爆者を解剖した。初期の調査は原爆か否かを確認し、当面の防衛対策を探るのが主目的だった。

 原爆症治療に向けた本格的な調査は、30日の都築正男教授らの東大調査班からである。京大も9月5日に調査班を派遣するが、17日に台風による山津波で全滅に近い打撃を受けた。被爆当時の混乱もこのころには一応治まり治療が本格化する。10月5日には53カ所あった救護所は11カ所に縮小され、日本医療団病院が6カ所に開設された。

 被爆後4カ月が経過すると、重い障害を受けた人のほとんどは死亡し、死を免れた人は一応回復に向かった。急性障害に代わって後傷害が発現してきた。白血病、ケロイド、原爆白内障などが代表的なものだ。

 医師たちはプレスコードで活動を制限されながらも治療や研究に地道に取り組む。成果は、山脇卓壮医師=広島市中区本通=が原爆と白血病の関係を明らかにするなど、講和条約発効(1952年)後、次々と日の目を見る。そのころから、がんが医師の前に立ちはだかってきた。


≪中国新聞 あの日再録 45・9・8≫ 「お灸に奇跡的効能 患者多数への実験で判明」

 原爆症に対する完全な治療方法がないまま、被爆直後にはさまざまな民間療法が広まった。ワラをもつかむ思いの被爆者にとって「お灸(きゅう)」はその代表的なものだった=写真(菊池俊吉氏撮影)。1945年9月8日付の中国新聞には「すぐすゑろお灸 原子爆弾症に奇跡的な効果」の見出しの記事が登場した。以下その記事。

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 広島県佐伯郡鍼灸(しんきゅう)師会副会長の堤真人氏は今回の原子爆弾による罹(り)災者に対して治療。奇跡的効能があることが多数の患者への実験の結果により判明した。

 すでに数十人の患者のうち全治者3人。全治疑いなしと思わるる患者4人、快方に向かいつつある患者は残り全部。また重症者で熱40度以上、頭髪抜け、斑(はん)点の現れた者4、5人も全部快方に向かいつつある。都築博士の立証するごとく灸は、白血球、赤血球の破壊を防止し、かつ増加する効果がある。

<参考文献>広島原爆医療史(広島原爆障害対策協議会)▽原子爆弾(仁科記念財団)▽原爆三十年(広島県)▽広島新史資料編(広島市)▽櫻隊全滅(江津萩枝)▽ヒロシマのばら(原田東岷)▽ドクター・ジュノーの戦い(マルセル・ジュノー)

(1995年2月12日朝刊掲載)

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