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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <7> 被爆二世

■報道部 岡畠鉄也

 個人的な体験だが、数年前、子供が高熱を出し腹部に紫斑(しはん)ができた。医師は白血病の疑いがあると言う。私も妻も被爆二世。とっさに「原爆」の二文字が頭をよぎった。数日後、血液検査で「シロ」と判定されたが、紫斑の原因は不明のままだ。

 放射線被爆による遺伝の影響は、現段階ではみられないというのが医学界の大勢である。しかし、被爆者とその子孫は体に変調をきたすと原爆との関連を疑ってしまう。それを感情論と一蹴(いっしゅう)するには、ヒロシマは原爆の底知れぬ恐怖を刻み込み過ぎた。

 白血病で死亡した被爆二世の少年と原爆病院で被爆者治療にあたった医師を中心に、被爆者らの心のひだに積もった放射線の影をみる。


7歳の死「遺伝」問う 名越史樹ちゃん闘病記

 墓標に向かい父は心の中で語りかけた。「君と母さんの命を奪った原爆を無くすため頑張るよ」

 広島市街を一望する二葉山の墓地。広島県被団協常任理事の名越謙蔵さん(65)=広島市西区己斐大迫2丁目=は静かに手を合わせていた。墓石には「史樹 七歳」と刻まれている。この日は27年前の2月22日に亡くなった二男の命日である。

 史樹ちゃんは「被爆二世」。2年8カ月に及ぶ白血病との壮絶な闘いは、被爆の遺伝的影響をあらためて問うきっかけになった。「あの日は今日と違って大雪の寒い日でしたね」。謙蔵さんは幼子の面影を探るように目を細めた。

 忍者ごっこと宇宙船の絵をかくのが大好き。そんなごく普通の男の子に死の影が忍び寄ったのは、5歳の誕生日を間近に控えた夏の暑い夜だった。40度近い高熱、歯ぐきがはれ上がり、関節の痛みを訴える。一晩中オイオイ泣く幼子を見つめながら、母親の操さんが重い口を開いた。「白血病じゃないかしら」

 操さんの脳裏には炎に追われたあの日がよぎっていた。牛田町(爆心から2.3キロ)の自宅で閃(せん)光を浴びた。妹を失い、自身もそれ以降体調がすぐれない。白血病は典型的な原爆症。被爆者ならだれしも心の片隅に発病の不安を抱いていた。

 夜が明けるのを待ち広島大医学部付属病院に駆け込んだ。不吉な予感は当たった。急性白血病と診断された。こんこんと眠る史樹ちゃんのベッドに顔を埋める操さん。謙蔵さんもぼう然と立ち尽くすのみだった。

 名越さんの坊やが白血病に・。広島市内で被爆者救援の街頭募金に立っていた児童作家の山口勇子さん(78)=東京都品川区在住=は、耳打ちされた話に衝撃を受けた。「ABCC(原爆傷害調査委員会)が広島にやって来た時、まず最初に来たのが遺伝学者だった。その重大性を気づかせてくれたのが史樹ちゃんだった」

 ABCCは1947年の開設当初から、ジェームズ・ニール博士らを中心に原爆放射線の遺伝的影響について調査を始める。だが、積極的な影響を示すデータは得られないとして、否定的な見解を繰り返していた。

 山口さんは行動を開始した。佐久間澄広島大教授、詩人の深川宗俊氏らと「胎内被爆者・被爆二世を守る会」結成を急ぐ。壁にぶつかった。被爆二世という耳慣れぬ言葉である。「被爆者差別を助長する」「子どもが不安に感じる。そっとしておいた方がよい」との声が相次いだ。

 「史樹ちゃん1人の問題ではない。そっとしておくことは、ほったらかしにすることと同じ」。山口さんは譲らなかった。史樹ちゃんが発病して1年後の1966年7月、会は発足する。

 史樹ちゃんの闘病は続く。激痛を伴う骨髄検査も「注射の攻撃はいや」と言いながら懸命に耐えた。主治医の川本功一さん(68)=現在、広島市西区東観音町で開業=は「史樹ちゃんは新薬が効き寛解状態に入っていた。再発さえしなければ長期生存の希望もあったのですが…」。

 発病から1年9カ月。あと3カ月、変化がなければ希望が持てる。しかし、史樹ちゃんは小学校の入学式を済ませたころから再び容体が悪くなる。大切なランドセルを兄に持ってもらうほどだ。「不吉な予感がしたんですよ。あれほど嫌がった注射もあの日はおとなしく我慢していた」と川本医師。4月の定期検査。勤務先で電話を待っていた謙蔵さんは、妻の泣き声ですべてを悟った。再発である。

 確実に近づく死。それでも史樹ちゃんは驚くほどの生命力をみせる。夏休みにはプールに出かけられるほどになった。泳げる距離を一メートル延ばそうと懸命だ。そんなある日、史樹ちゃんはつぶやいた。「もうちっと、生きたいね」。こんなに小さな子が自分の運命を悟っているのだろうか。謙蔵さんは笑顔を浮かべるのが精いっぱいだった。

 それから半年後、史樹ちゃんは亡くなった。くわえていたガーゼの棒が落ちそうになる。「しっかりかめ」と謙蔵さんはどなった。かもうとして、息を一つ大きく吸う。それが最期だった。午前2時45分。白血病との闘いは終わった。まだ温かいほおをなでながら謙蔵さんは泣いた。

 史樹ちゃんの死は被爆二世の問題に火をつけた。翌年、被爆二世の奥野孝子さん(17)、森井昭夫ちゃん(5つ)が白血病で相次いで死亡。広島県被爆教師の会や広島県被団協などの被爆者団体や県教組、国労、全電通など労組が、行政に二世の実態調査や健康管理の徹底を求めた。被爆二世を中心に被爆者青年同盟(被青同)もでき活発な活動を始めた。

 史樹ちゃんが亡くなって2年後、謙蔵さんは呉市の両城中学に招かれた。夫妻がつづった史樹ちゃんの闘病手記「ぼく生きたかった」を基にした学校劇の発表会。会場からすすり泣きが漏れる。謙蔵さんは感動した。

 「子どもたちの心に史樹が生きている」

 指導教員の藤岡義隆さん(61)=呉市広塩焼2丁目=は「楽屋で生徒はみんな泣いていた。演じることにより原爆の悲惨さを実感したのだろう」と声を詰まらせる。藤岡さんは今年一月、当時の教え子から電話をもらった。彼女は児童劇団のメンバー。「ぼく生きたかった」を上演したいという。教師になって平和教育を指導している教え子もいる。あの感動が人生の分岐点になった。

 墓石には史樹ちゃんと並んで操さんの名前もある。1986年に肝臓障害で亡くなった。56歳。「妻にも史樹と同じような紫斑(しはん)ができた。医学界が原爆症の遺伝に否定的なのは知っている。でもあの2人の紫斑を思い浮かべると…」。謙蔵さんには被爆体験はない。だが高校退職と同時に妻と史樹ちゃんの遺志を継ぎ、被爆者団体に参画し反原爆の闘いを続ける。

 原爆放射線の遺伝的影響を積極的に証明する結果は観察されていないという。だが、影響がないと証明することも現段階では不可能である。史樹ちゃんの死が問いかけた答えは27年たった今も出ていない。

 謙蔵さんは史樹ちゃんが亡くなった翌日の日記にこう記した。「昨日まで確かに史樹は生きていた。そして、確かに私と妻の子であった。

しかし、今はヒロシマの子であり、みんなの子である」


TVの「夢千代」は死なず

 NHKが1980年代に3シリーズ放映した「夢千代日記」は、被爆の後遺症を浮き彫りにしたドラマとして反響を呼んだ。吉永小百合さんが演じたヒロインは胎内被爆者の設定だが、被爆した母親から生まれたということで被爆二世と同一視され、被爆者から「子供が不安に思うので死なせないで」との声が多数寄せられた。

 脚本は早坂暁さん(65)。山陰の小さな温泉町で芸者置屋を営むヒロインが、白血病に侵され「あと半年の命」と宣告されながら懸命に生きようとする姿を、多彩な人間模様を織り交ぜながら描いた。

 早坂さんは原爆投下から約2週間たった夜、広島駅に着いた。当時16歳で海軍兵学校から愛媛県に復員する途中だった。「廃虚の街は、死体から出るリンの青い火が無数に浮かんでいた。人類が終わる時はこんな光景になるんだろうなと、眺めていたら、遠くから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた」

 この夜に体験した「生と死の象徴」は以来、早坂さんの心をとらえて離さなかった。NHKで新しいドラマを作ることになり、吉永さんと出会う。「彼女の芸者姿はきれいだろうなと思いながら話をしているうちに、彼女は原爆投下の年の生まれと気づいた」。あの時の赤ん坊の泣き声が夢千代に結びついた。

 早坂さんは脚本を書くにあたり被爆者から話を聞いた。「被爆者の子供はみんな障害を持っているというふうに受けとられる書き方はしないでほしいと聞かされた時、あらためて原爆の罪深さを実感した」。ドラマが放映されると驚くほどの反響があった。

 早坂さんらは被爆者の気持ちを重視してテレビドラマでは夢千代を死なせなかった。しかし、映画化の際、吉永さんが「映画では死にたい」と望んだため、映画で完結するという異例の展開となった。

<参考文献>原爆放射線の人体影響1992(放射線被曝者医療国際協力推進協議会)▽広島新史市民生活編(広島市)▽ぼく生きたかった 被爆二世史樹ちゃんの死(竹内淑郎編)▽ヒロシマ母の記(名越操)▽被爆者とともに 続広島原爆医療史(広島原爆障害対策協議会)▽ヒロシマ医師のカルテ(広島市医師会)

(1995年3月5日朝刊掲載)

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