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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <9> 原爆小頭症

■編集委員 小野増平

 母親の胎内で被爆し知恵遅れなどの障害を持つ「原爆小頭症患者」と、原爆で孤独な「生」を強いられる「原爆孤老」。ともに被爆から50年の歳月を刻みなお、身をもって原爆の罪と悲惨を問いかける。

 原爆がもたらした知的障害者や高齢者にとって、国と自治体が用意した福祉施設は果たして安らぎの場たり得ているのだろうか。28年もの間、障害者施設で黙々と生きる一人の原爆小頭症患者と、原爆養護ホームに入って25年、同じ境遇の高齢者と肩寄せ合う原爆孤老を、それぞれの施設に訪ねた。

 厚生省が原爆小頭症と認定している患者は全国で24人。一方、原爆孤老は年の経過とともに様変わりし、今では身寄りがありながら孤立を余儀なくされた「精神的孤老」も増えている。


過酷な運命いつまで 原爆小頭症の賀村春男さん

 広島県佐伯郡大野町のJR山陽線大野駅。小さな駅の待合室に毎月第一日曜日の朝、6、70歳代の控えめな感じの男女十数人が集まる。大半が顔なじみらしく低い声であいさつを交わす。

 駅から約7キロ、山あいの知的障害者授産施設「広島県立大野寮」で暮らすわが子に、月に一度の面会のため訪れた親たちである。子どもとはいえ入所者の平均年齢はすでに45歳。親たちの横顔には老いの影が濃い。

 賀村ヨシコさん(79)=広島市中区=もその一人。胎内被爆の二男の春男さん(49)が、28年前の1967年6月に入所した。以来、よほどのことがない限り毎月、面会に来ている。

 「会って大した話もないが、行かないといつまでも門の所で待っていると聞いてふびんで…」。ヨシコさんにとって、春男さんは何歳になっても気掛かりな子なのだ。

 春男さんは被爆から7カ月後の1946年2月に生まれた。助産婦の手助けもいらない軽いお産だった。「約三百匁(1100グラム)しかなくて、両手にすっぽり入る猫の子みたいに小さな子でした」。ヨシコさんは振り返る。

 その子が原爆放射線の影響を受け、知恵遅れの「原爆小頭症」を背負って生まれたとは思いもよらなかった。

 ヨシコさんは妊娠3カ月のおなかを抱え、舟入中町の自宅(爆心から1.1キロ)で原爆に遭った。崩れた家の下敷きになり、ようやく抜け出し炎に追われ郊外に逃げた。

 「大したけがではなかったし、戦後もまあ元気だった。生まれる子どもに悪い影響があろうとは考えもせんかったです」

 春男さんは病気がちなため、1年遅れで小学校に入学した。健康診断で異常が見つかる。原爆傷害調査委員会(ABCC)から連絡があって研究所のある比治山へ連れて行った。検査の結果、「よく生きて3、4年」と言われた。

 「どういうことか分からんかった。ただ春男がかわいそうで、なさけなかったですよ」。7歳の春だった。

 春男さんは小学校こそ卒業したものの、病弱だった。勉強について行けないため中学校へは行かず、家でぶらぶらと日を過ごした。テレビを見るのと、近所の小さい子と遊ぶのが何よりの楽しみだった。

 21歳の初夏、春男さんは「大野寮」に入る。「近所の若い衆が春男を『火事を見に行こう』言うて宇品の方まで連れて行って置いて帰るんです。夜遅うに泣きながら戻ってきて…」。そんなことが何度か続き、知人の勧めもあって、ヨシコさんは春男さんを施設に入れる決心をしたという。

 それから28年、春男さんは大野寮にいる。年に3回、正月、5月の連休、盆には1週間くらい家に帰る。それ以外は、月一回の面会日と、年に数回の岩国への買い物、寮生の旅行だけが社会との接点である。

 2月5日。1カ月ぶりにヨシコさんに会った春男さんは「お母ちゃん、今月は6340円の給料があったよ」と、うれしそうに報告する。

 大野寮では養鶏、まき割り、野菜栽培などの軽作業を受け持つ。作業に応じて賃金が支給される。寮生の自立性を高め、社会生活への適応力を身につけさせようという考えからである。寮生は賃金を貯金して買い物に充てる。

 春男さんの午前中の仕事は、このところ鶏舎の清掃。300羽の鶏が落としたふんをかき出し、集めて一輪車でたい肥場へ運ぶ。卵を集めたり、えさを与える仕事は、別の入所者が担当する。

 「仕事は楽しい?」と聞くと「うん、おもしろいよ」。春男さんの表情が崩れ、顔が笑顔でいっぱいになる。野球と演歌が大好き。西武のファンで、歌手は川中美幸がひいきである。

 2月27日の昼食時、2月生まれの入所者の誕生会があった。頭に白いものが目立ち始めた春男さんは「ぼく49歳になったよ」と、うれしそうに語りかけてきた。

 ヨシコさんは春男さんの将来を楽観している。「みんなにかわいがってもろうとるんで、ずっと大野寮においてもらえばええ。年をとったら養護ホームへ入れてもろうて…」。自分が動けなくなっても、月に一度の面会は、春男さんの兄や妹が行ってくれるだろう、と言う。

 大野寮には今、男30人、女20人が入所している。最高齢者は65歳になる。一度入所すると退所者はほとんどいない。寮の山脇一成指導課長は「入所者は同じ仕事をコツコツやる持続力がある。こういった面を生かしてもっと社会が受け入れてくれればいいのですが」と言いながらも、一方で入所者の側に就職希望者が少ないことも認める。

 保護されて安全で慣れた寮生活から、社会生活へ踏み出すには困難が多い。たとえ働く場があっても、食事や金銭の管理など日常生活の維持はさらに難しい。福祉スローガンが「施設の中での隔離生活でなく、地域・家庭で支え合う生活を」とうたっても、現実の壁はあまりに高い。

 22年前の2月の寒い冬の日、広島市内で原爆小頭症の子どもを持つ母親の1人が息子の将来を案じながら息を引き取った。爆心から1キロの広瀬北町で被爆したとき妊娠4カ月だった。母親は死の前年、原爆小頭症患者を持つ親の心境を手記にこう記した。

 「この子の生ある限り、人間としてなすべき道は歩ませたい。容姿、形はどうあろうとも、健康でこの子と将来を共にしてくれる嫁を迎えて、私はこの世を去りたい…」

 その母親の願いは、いまだに実現していない。似たような境遇にある春男さんも、その半生の大半を施設の中で過ごしてきた。


きのこ会 親と市民 自立願い奔走

 原爆小頭症は医学界では比較的早い時期から知られていた。しかし、それが一般に明らかになるのは、1965年に岩波新書「この世界の片隅で」が出版されて以後のこと。

 新書は農村作家山代巴さんの呼びかけで広島の若手ジャーナリストや文化人でつくった「広島研究の会」が、原爆被害をもう一度、底辺から掘り起こそうと八編の記録を収めた。

 その中に、「IN UTERO」(胎内被爆児)があった。筆者は当時、中国放送編成部に勤務していた秋信利彦さん(現中国放送ラジオ局長)。風早晃治のペンネームで発表した。そのころ秋信さんは原爆取材の一線から外れていた。

 「暇をもてあましていたところに山代さんの話が持ち込まれ、飛びついた」。原爆後遺症の取材を始め、その中で原爆小頭症児にぶつかった。

 医学界では珍しくなくても、秋信さんにはその存在は衝撃だった。加えて医学論文は患者を符号化、統計化し、過去の症例として発表するだけ。その子と、親兄弟がいかに苦しんでいるかは関心の外にある。秋信さんはそのときの思いをこう書いている。

 「…胎内被爆による小頭児たちが、20年目を迎えようとしている広島、長崎のどこかに生きているとしたら、そしてこれからも生きなければならないとしたら、過去のことで、今はもう問題はないのだとかたづけてしまうことはできない」

 医学論文にある符号のような仮名リストを執ように追跡、7人の小頭症患者を突き止め、一人ひとりの近況を伝えることに成功した。

 だが、「広島研究の会」のメンバーの行動は取材だけに終わらなかった。一人の小頭症患者の親の「あんたたちは本を出せばよくても、私らは一生この子と生きていかんとならんのよ」の声に突き動かされたのである。「本を出して終わりにするなら、結局、症例発表と同じではないか」

 出版1カ月前、原爆小頭症患者と親の会の「きのこ会」を発足させた。会はその後、30年にわたって存続し、それまで衆目を避け孤立しがちだった小頭症患者の親たちを結び付け、行政に数々の小頭症患者対策を実現させた。

 しかし今、その会も転機を迎えている。高齢のため親の多くが活動できなくなったり、亡くなったりし、世話人の肩に患者一人ひとりの生活がかぶさり始めたのだ。

 世話人代表の大牟田稔さん(広島平和文化センター理事長)は、「親がいなくなったとき、第三者の力には限界があることを痛感している」とため息をつく。知的障害を持つ患者たちの生活を保障するには限られた世話人の個人的善意だけでは不可能に近い。

 きのこ会はこのため、今年6月に、患者の「満五十歳の誕生会」を開く際、会の参加者をもっと広げ、「小頭症患者を支える会」に衣替えしたいとしている。

<参考文献>「原爆が遺した子ら」(きのこ会)▽「この世界の片隅で」(山代巴編)▽「原爆孤老」(刊行委員会編)▽「紙碑」第1・3集(広島原爆養護ホーム)▽きのこ会会報

(1995年3月19日朝刊掲載)

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