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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <10> 被爆韓国・朝鮮人②

■報道部 西本雅実

 「日本は唯一の被爆国として…」。政府に限らず被爆者、マスコミもこうした言い回しをする。原爆被害者は日本国内だけにいるかのように聞こえる。そのフレーズからは、一群の人たちがすっぽり抜け落ちている。在韓被爆者をはじめとした海外にいる被爆者たちである。

 朝鮮半島の南部から広島への移住の歴史は古く、1910年代にさかのぼる。日本の植民地支配の下、男たちは生きる糧を求め広島に渡り、やがて妻子を呼び寄せ家族で住みつく。大戦中は徴用工の他、軍人・軍属もいた。そして原爆に遭った。

 傷ついた身一つで母国に戻った在韓被爆者は今、どうしているのか。長く医療支援も行わず放置して来た日本をどう見ているのか。初の被爆者福祉施設が着工する韓国慶尚南道陜川郡を訪ねることから、「もうひとつのヒロシマ」の現実を追う。


同じ被爆者なぜ差別 不十分な「日本の支援」

 陜川郡の保健所兼診療所から川を一つ渡り、東に約5キロ。「ここが、センター建設地です」。原爆被害者協会陜川支部の安永千支部長(68)は、国道から約500メートルほど奥まった山あいの空き地に自転車を止めた。もともとは土木業者の資材置き場だという。

 安さんがセンターと呼ぶ「原爆被害者総合福祉会館」は、韓国内で初の被爆者養護施設として来月にも工事が始まる。

 計画では地上3階、地下1階の延べ床面積2640平方メートル。1階は医務室や食堂、その各階上に2人、4人、6人部屋と娯楽室などを設け、被爆者の医療・生活の援護拠点とする。定員は80人。

 「身寄りのない高齢の被爆者らが入る予定です。ただ、今の診療所と同じように専門医はいないようだし、そもそも運営費がいつまで持つだろうか…」。着工間近だというのに、安さんは浮かない顔をした。

 福祉会館建設費24億ウオン(約3億円)は、日本政府がようやく90年に「人道的立場からの支援」(外務省)として拠出表明した総額40億円の「在韓被爆者支援特別基金」を取り崩す。しかし、その使途は被爆者の願いとは裏腹に、政府間の交渉で決まった。

 すなわち(1)陜川やソウル、釜山など全国七カ所への健康福祉センター建設(2)定期健康診断実施(3)治療支援費・である。

 全体のパイが決まっているのだから、センターが各地に建つほど個々への治療支援費は減る勘定だ。

 日本の被爆者諸手当に届かない毎月の「診療補助費」(約1万2千円)さえ、基金が建設費に食われてなくなるのでは・。病苦で韓国の経済発展からも置き去りにされた被爆者はそうした疑心、不満を募らせ、そのほこ先は勢い、基金を管理する大韓赤十字社に向かう。

 「できることなら基金を政府に預け、事業から手を引きたいくらいだ」。ソウルの大韓赤十字社に一昨年発足した原爆福祉事業所を訪ねると、呉千根所長(54)は日韓両政府と被爆者の板挟みにため息を隠さなかった。

 赤十字社は、認定被爆者2300人余が医療機関で治療を受けた場合、約2割の自己負担分の医療費を原則として基金から払い戻す。

医療・生活援護の性格を持つ「診療補助費」もそこからねん出している。所長以下職員5人でその実務を担う。

 が、医療費の払い戻しは、現実にはコンピューターを使った高度医療をはじめ薬剤の種類によっては適用外となる。その分、被爆者は「診療補助費」でカバーしなければならないため、補助費の増額、新たな手当支給を望む。

 呉所長は「出せるものなら出したいが、基金そのものが十分な額じゃない。それなのに会館を建て運営しなくてはならないんだから…」。再びため息が漏れた。

 現在、基金残高は円換算で約28億円。今年の事業費は福祉会館建設費で膨らみ7億5000万円。仮に会館の建設・運営を陜川だけにしても、治療費や診療補助費支給を今のペースで続けるとなると、2001年には基金をほぼ使い果たす計算という。

 被爆者の疑心は、決して取り越し苦労ではない。

 「どうして日本の政府は同じ原爆被害者を区別するんですか?」

 ソウル下町にある韓国原爆被害者協会の事務所で、鄭相石会長(65)は穏やかな口調で胸に積もる思いを問い掛けてきた。やはり陜川出身で、幼いころ一家で広島に渡り被爆した。十日市町の建物疎開に出た母はそこで亡くなった。

 この2月会長に選出された鄭さんは「補償を求めたところで、日本の政府から返って来るのは言葉だけの謝罪。みんな聞く耳はないだろう」と、辛らつさを込めて日本を見る。時とともに残り少なくなる基金の使途をめぐり、不満が噴き出す会員の要望に現実的にこたえなくてはと思うからでもある。

 「日本の被爆者よりいい待遇を望んでいるんじゃない。人並みの援護がほしい。『苦しくても長生きしてよかった』。そう思えるよう、われわれにつながりの深い広島が協力してほしい」

 国内外に平和を訴えるヒロシマの思想が、国境や民族を問わず人の生を守るものかどうか。その答えはいまだに出ていない。


「原爆手帳訴訟」で勝訴した 孫振斗さんは、いま

 日本国内を含め、被爆者全体の救済を押し進めるのに大きな役割を担ったのが、1978年に出た「被爆者健康手帳訴訟最高裁判決」。

いわゆる「孫振斗判決」である。

 孫振斗さん(68)は広島で被爆し、70年原爆症の治療を受けようと釜山から密入国した。被爆者健康手帳交付を福岡県に申請したが、県は「居住権がない」という厚生省の判断に従い却下。その処分取り消しを求めた訴訟は一審、二審とも孫さんが全面勝訴した。

 そして、最高裁は原爆医療法の趣旨について「国家補償的配慮が制度の根底にあり、かつその人道的立法から、不法入国した被爆者についても適用される」と、原爆被害に対する国の責任を明確に指摘し、原判決を支持した。

 一人の韓国人被爆者の訴えが、それまで適法入国の在外被爆者にも「手帳」を交付しなかった国のかたくなな姿勢を転換させ、被爆者援護法制定への根拠にもなった。

 その最高裁での全面勝訴から17年。「原爆裁判」の歴史に名を残す孫さんは、福岡市内で独りひっそり暮らしていた。かつての支援者たちとも音信は、ほとんど途切れている。

 「あんなアホなことしてみんなに迷惑を掛け…」。生まれ故郷の大阪弁でぼそぼそ「勝訴後」を語る。アホなこととは、何度か新聞の社会面ダネになった窃盗などの刑事事件のことである。支持者の多くもこのために離れた。

 「原因はいつもギャンブルです」。包み隠さずその後を語るが、視線はうつろだ。それでも布団が無造作にたたまれた部屋の隅には、「手帳」と在留特別許可書が大事にしまってあった。「日本にやって来て原爆に遭った人は口にはせんだけで、みんな苦労したんとちゃう?」

 被爆者として当然の権利である「手帳」を取得するため、密航という手段に訴えた。手帳取得のための6年余の裁判期間中は一方で、出入国管理令違反の罪による「強制送還」におびえた。外部からの面会もままならない「船待所」大村収容所で、男盛りの40代を過ごした。

 今となっては原爆が、一人の男の人生をもてあそんだ。そうとしか言いようがないのだろうか。


依然つかめぬ全体像 9割が広島で被爆

 広島、長崎で被爆した韓国・朝鮮人はどれだけいるのか。諸説あるが、正確な被爆者数は今も明らかでない。

 原爆投下前の在留朝鮮人人口として、内務省警保局の資料がある。1944年、広島県は8万1863人(うち徴用など強制移入者5944人)、長崎県5万9573人(同2万474人)がいた。

 しかし原爆投下時、広島、長崎市内にどれだけの朝鮮人が居住し、被爆後に入市したのか。広島、長崎両市が共同編集した「広島・長崎の原爆災害」(79年岩波書店刊)は「その把握は極めて困難」と述べながら、朝鮮人被爆者数は広島で2万5000~2万8000人、長崎1万1500~1万2000人と推定した。

 その一つの基になったのが、韓国原爆被害者援護協会(現・原爆被害者協会)が72年に示した被害状況。広島で5万人、長崎2万人の計7万人が被爆し、4万人が死亡。日本に残った者を除く、2万3000人が韓国に戻ったとみる。が、これもあくまで推計である。

 韓国保健社会部による初の本格的な実態調査が実施されたのは90年秋。その年春の日韓首脳会談で決まった在韓被爆者への医療支援費40億円拠出を受け、新聞・ラジオを通し被爆者が名乗り出るのを呼び掛けた。

 その結果、新たに確認されたのは570人で、協会登録済みの被爆者と合わせ2307人となった。被爆地は広島が91%を占め、88%が原爆の後遺症を訴えた。

 協会創設時からのメンバーで元協会長の郭貴勲さん(70)=ソウル近郊在住=は、「『原爆症は子孫に遺伝する』。そうした被爆者への偏見が強い中、子供らの結婚や就職を考えると被爆者だとは名乗りにくい」と指摘する。

 協会が認定審査し、大韓赤十字社が発行する「原爆被害者登録証」を持つ者は昨年末現在、2348人。推計値とは言え2万3000人と比べてあまりに開きがある。

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)でも89年、初めて10人の被爆者がいるのが確認された。60年前後の帰国運動で広島県内からは2055人が北朝鮮に向かったと言われるが、どれだけの被爆者がいるのかを含め、その実情はほとんど分かっていない。

<参考文献>「偏見と差別 ヒロシマそして被爆朝鮮人」(平岡敬)▽「証言は消えない 広島の記録1」(中国新聞)▽「イルボンサラム(日本人)へ」(広島・長崎証言の会)▽「被爆韓国人」(朴秀馥、郭貴勲、辛泳洙)▽「沿革・現況・実績」(韓国原爆被害者協会)▽「資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑」(碑の会)など

(1995年3月26日朝刊掲載)

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