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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <11> 沖縄被爆者

■報道部 岡畠鉄也

 原子雲の下で地獄の炎に焼かれた人々の中には、さまざまな土地からはるばる海を渡り広島にやって来た人も多かった。日本で教育を受けるために未知の祖国に帰ってきた日系2世たち。戦火を避け疎開してきた沖縄県人もいた。

 ともに日本人以上に日本人であることを強いられながらも、戦後長く、その存在すら忘却の彼方に押しやられ、政府の援護対象から切り捨てられてきた。現在、北米に住む被爆者は800人から1000人といわれ、沖縄の被爆者は約350人。このほか南米など各地に散らばる。原爆症に対する偏見が渦巻く中で、彼らはどんな思いで広島を見つめていたのだろう。

 軍の秘密任務に動員され被爆死した2世女学生と27年間に及ぶ米軍支配の沖縄で、核兵器の恐怖にさいなまれながら生きた母娘を通し、国と国のはざまで声を上げることすら許されなかった人々の姿を追った。


被爆母娘 反基地訴え 那覇市の丸茂ツル・幸子さん

 夾竹桃 基地ある島の 核疑惑

 「命の樹」という九州を中心にした歌集(1994年発行)にこんな俳句が載った。作者は那覇市の比嘉幸子さん(62)。ただし書きに「広島女学院時代に原爆にあう。昨年広島忌に出席、亡き友の霊を弔う」とある。

 キョウチクトウは広島の原子砂漠にいち早く花をつけた慰霊の花。かれんなピンクの花と核疑惑という言葉の不釣り合いな対置に、沖縄に住む被爆者の心のひだに積もった影を見る思いがした。俳句に込められた「心」にひかれて幸子さんを訪ねたのは、沖縄地方では珍しい春のあらしに見舞われた3月半ばだった。

 ブーゲンビリアの赤い花びらが激しい雨に打たれている。那覇市首里久場川町2丁目。沖縄戦の激戦地・首里城にほど近い住宅街に幸子さんの家はあった。

 「私は行方不明者になっていたんです」。幸子さんは1枚の紙を見せてくれた。45年に入学した広島女学院高等女学校1年生の手書きの名簿のコピーだ。被爆直後、当時の教師が生存者からの聞き取りで集めたという。129が原爆の犠牲になっていた。「亡」という字が連なる中で、幸子さんの欄は空白である。

 2年前の平和記念式典に沖縄県の遺族代表として出席した際、幸子さんは48年ぶりに母校を訪れ、この名簿を手にした。「すぐ学校に行くべきだったんでしょうね。以来、校門をくぐる勇気が出なくて…」

 あの日、幸子さんは高熱のため雑魚場町(現・中区国泰寺町)での建物疎開を休み、吉島町の自宅にいて助かった。動員された同級生はほぼ全滅。友人の親から「あなただけなぜ助かったのか」と言われたことが心のしこりになっていた。

 幸子さんの家族は沖縄戦が始まる前年の44年、父の故郷を頼って広島に渡った。両親は那覇市内でパナマ帽の製造業を営んでいたが、戦争で家業は閉鎖。政府は本土や台湾への疎開を半ば強制的に勧めていた。しかし、潜水艦による輸送船への攻撃はし烈になり、約1500人の児童らが犠牲になる対馬丸事件が起きるなど、沖縄近海は既に悲劇の海だった。

 命がけの航海を終え広島に落ち着いた一家。だが、その年の暮れに父の種吉さんが病死。母のツルさんに、長男の政貴さんと幸子さんの子供2人を抱えた生活がずしりとのしかかった。飛行機の部品工場に職を求める。夫の死を嘆く余裕もなく始めた3人暮らし。8月6日はそんな日常の延長線上にあった。

 ツルさんは南大橋(爆心から約2キロ)で被爆。左半身に熱傷を負い、どうやって吉島の自宅までたどりついたか定かではない。子供たちの無事を確認した途端に倒れた。それから2カ月寝たきり。屋根の吹き飛んだ家で雨が降るとそのまま傘をさしてしのいだ。

 3人が沖縄に引き揚げたのは翌年10月。ツルさんの母親を頼っての帰郷だった。おんぼろの貨物船から見た故郷の荒れ果てた姿。「おばあちゃんは生きていないだろうね」と3人は顔を見合わせた。

 だが、祖母は先祖からの土地を守って生きていた。避難者のテント小屋が無数に広がる石川市で4人は抱き合った。多くの友人の死を知った。対馬丸とともに海に沈んだ級友もいる。幸子さんの胸に「生き残った」という苦い思いがまたよぎった。

 足を伸ばせば外に出てしまう、そんなテント小屋での生活。祖母とツルさんは雑貨屋を開く。幸子さんも米軍キャンプで働いた。故郷を焼いた米軍で働くことに抵抗が無かったといえばうそになる。生きるためには仕方のない選択だった。

 顔にケロイドが残るツルさんはめったに人前に姿を見せなかった。近所の子供たちも怖がって寄りつかない。原爆症に対する無知と偏見。ほとんどの家庭が沖縄戦で肉親や親類を亡くしている中で原爆に対する理解も薄かった。鏡を見る気持ちすら失っていた、そんなツルさんが変わった。59年、石川市宮森小学校ジェット機墜落事故である。

 訓練中の米軍機が校舎に墜落、授業中の児童ら130数人が死傷した。操縦士はパラシュートで脱出していた。ツルさん一家は校舎の向かいに住んでいた。ぼう然とたたずむツルさん。「また原爆が落ちたと思った。基地があるからこんな悲劇が…」。母の激しい口調に幸子さんは驚いた。ツルさんはそれ以来、雷など大きな音がすると原爆の幻影に苦しむ。

 戦場と変わらない島で原爆被害を訴えたい。ツルさんはそんな思いを募らせる。だが、「沖縄に被爆者はいない」とする米軍支配の壁に個人ではどうすることもできない。63年、一つの新聞記事が目を引いた。沖縄原水協が被爆者を探しているというのだ。ツルさんは一歩踏み出した。

 翌年発足した「沖縄原子爆弾被害者連盟」(現・原爆被爆者協議会)で、整形手術で幾分平らかになったとはいえケロイドが残るツルさんはシンボル的存在になった。その年の原水禁沖縄集会では、戦後19年間放置されてきた沖縄の被爆者の怒りを込め初めて被爆体験を語った。

 「母なりの生き方を見つけたなと思った」と幸子さん。しかし、当時の彼女の仕事は米国民政府労働局の組合調査官。労働運動の情報収集など「反米活動」を抑制する側である。母と娘は敵と味方に分かれた。幸子さんは何も言わなかった。「隠れるように暮らしていた母を思えば…。それに私も被爆者だから」

 沖縄が復帰して23年。医療水準も上がり、被爆者援護で本土との格差を探すのは難しい。しかし、ツルさんの訴えもむなしく米軍基地は依然沖縄本島の20%を占め、世界戦略の一大拠点として核疑惑に包まれた島の現実は変わっていない。

 ツルさんは政貴さんが8年前に亡くなって以来、すっかり老いた。そんな中で迎えた広島行きは幸子さんの心に踏んぎりをつけた。母校の慰霊碑に刻まれた級友たちの名前をたどるうちに、忘れていた顔が次々に浮かぶ。「当時の先生から、級友は賛美歌を歌いながら一人、また一人と息絶え、結局最後まで歌えなかったという話を聞かされた。ショックでしたね」。負い目は怒りに変わった。

 今年1月、幸子さんは被爆者協議会の新年会に出席した。そこで琉球民謡を舞った。ツルさんも宴会では決まって踊った。幸子さんは踊りながら、集まった母の同志の顔を見回した。母が米寿(88歳)を迎えたようにどの顔も老いを刻む。「核のある島で被爆体験を語る人間がいなくなる。その後に来るものは…」。幸子さんは決断した。

 窓を打つ雨はいつしか小降りになっていた。「被爆者は死ぬと広島の原爆慰霊碑に名前が入るのですか」と幸子さんは記者に問う。うなずくと「私が入ることを女学院の級友は許してくれるかしら。許してもらえるよう頑張らなくちゃね」。


10年遅れた援護 占領下、病気・貧困の悪循環

 「沖縄には被爆者はいない」。米国民政府と琉球政府は一貫してこう表明してきた。54年に久米島で男性が髪の毛が抜けるという原爆症特有の症状を伴い死亡。60年にはやはり久米島で男性が同様の症状で死亡している。琉球政府は調査団を派遣したが、専門医のいない調査であいまいなまま打ち切っている。

 被爆者不在の根拠が崩れたのは63年。八重山地区をオルグしていた沖縄原水協が石垣市に住む故佐久川ツルさんから訴えを受けた。佐久川さんは広島陸軍病院の看護婦だった。

 当時の沖縄原水協事務局長、大島修さん(65)=石垣市登野城=は「昼食で寄ったソバ屋に佐久川さんがいた。『めまいや貧血がひどく原爆と関係があるのでは』と聞く。思わず声を上げましたよ。やっと手がかりをつかんだと」と回想する。

 大島さんは早速、琉球政府に援護措置を要求するが、政府は逆に原水協に詳細な調査を要求する始末だった。それでも78人の被爆者の存在が確認された。この結果を直接日本政府に訴えるため大島さんは、観光と偽って本土に渡った。

 「米軍の圧力はものすごかった。家にも脅迫めいた電話はかかる。おいが政府に就職するという時期で『手を引けば採用してやる』などとさまざまな圧力があった」と大島さんは明かす。そんな困難を経て衆議院外務委員会で取り上げられたのは64年。19年目にして沖縄の被爆者は日の目をみた。

 原爆医療法が施行されたのは57年である。しかし、米軍施政下の沖縄では適用されず、しかも健康保険制度もないダブルパンチに被爆者の中には医師にかかれず命を縮める人も多かった。

 64年に発足した沖縄県原子爆弾連盟が(1)専門医による早期検診の実現(2)原爆医療法の本土並適用・という本土の被爆者からみればささやかな要求を柱に据えざるをえなかったことに、見捨てられていた彼らの切実な思いをみる。

 「医療法があるなんて64年に被爆連(沖縄原子爆弾被害者連盟)をつくるまで知らなかった。被爆者は普通の人より体が弱いからどうしても生活が貧しい。医療費をねん出するため家や財産を売った人も多かった」と金城秀一初代理事長(66)=糸満市照屋=は振り返る。

 被爆者の切実な声に押される形で65年、広島の専門医らによる被爆者検診が実施され、67年に被爆者健康手帳が交付される。本土に遅れること10年。原爆投下から20年が過ぎようやく被爆者援護がスタートした。

<参考文献>「私たちは敵だったのか」(袖井林二郎)▽「沖縄県原爆被爆者協議会被爆45年記念誌あゆみ」▽「沖縄の被爆者」(福地曠昭)

(1995年4月2日朝刊掲載)

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