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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <13> 原爆慰霊碑

■報道部 福島義文

 爆心地に近い平和記念公園の原爆慰霊碑には、現在、約18万7000人の死没者名簿が納められ、無縁の遺骨を弔う原爆供養塔には約7万柱が眠る。いずれも惨禍に命を奪われた原爆犠牲者たち。このデルタの一角が鎮魂の「聖地」と呼ばれるゆえんでもある。

 原爆慰霊碑の碑文は、二度の論争を越えて祈りと非核への決意を訴えかける。戦後半世紀たってなお、原爆の投下責任をめぐる日米の議論は行き違う。だが核時代の「ヒバクシャ」が絶えない中で、「人類の誓い」である碑文の意味は重い。安住の地のない供養塔の遺骨にとっても、被爆50年は決して区切りの年ではない。

 犠牲者に「安らかに…」との言葉をささげ、生存者がヒロシマの惨状を再び起こさないことを心に銘ずる。「聖地」の本来の意義がそこにあろう。


祈りと誓い21字に凝縮

 くすんだ深緑色のスクラップ帳がある。変色した1948年11月13日付の新聞記事が極東国際軍事裁判の判決を報じる。戦後、日本人戦犯の罪を問うた裁判。「東條ら七名に絞首刑」の見出しが目を射る。スクラップ帳は故・雑賀忠義元広島大教授の備忘録である。

 判決から4年後。「判事の一人で戦犯全員の無罪を主張したインドのパール博士が父の碑文を批判するとは、思いもしなかったでしょう」。雑賀教授の二男で元判事の飛龍(ひりょう)さん(67)=広島市南区翠2丁目=は、歴史の皮肉を振り返る。

 「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。広島平和記念公園のほぼ中央。埴輪(はにわ)型の原爆慰霊碑にある死没者名簿の奉納箱の正面に、横書き3行の碑文が刻まれている。ヒロシマの「祈りと誓い」が凝縮する21文字。被爆7年後、極東裁判から4年後の夏に碑はできた。

 広島市の市長室主事だった藤本千万太さん(78)=同市安佐南区西原6丁目=が、碑文の作成を頼みに雑賀教授を訪ねたのは、碑が完成する直前の52年7月下旬だった。はげ頭に骨張った顔の、ひょうひょうたる人物。「仙人」とも呼ばれた英語の名物教授は、市内の皆実町にあった旧制広島高校の弓道場に仮住まいしていた。

 教授は多くの英詩を見せた後、ぽつりと漏らした。「『しずかにお眠り下さい 過ちは繰返しませんから』。こんなとこかな」。藤本さんは懸命にメモした。教授本人が推こうし、翌日出来上がった成案は今の碑文そのものだった。

 「原爆慰霊碑は恒久平和を願うヒロシマの象徴」。そう考える浜井信三市長は碑文を考えあぐねていた。「めい福を祈る気持ちを誓いの言葉と結びつけるのに困った」とは浜井市長の回想である。

 藤本さんは市長に雑賀教授を紹介した。旧制広高の恩師だった。浮世離れしていて、自宅を訪ねる学生に硯(すずり)箱と記名帳を差し出したり、難解な英文エッセーを陶然と読み、自ら訳して悦に入る。自分の息子に「亜幌(アポロ)、飛龍(ヒリウス)」とギリシャ神話にちなむ名をつける異彩の人。英詩を愛する文人肌の英知から、あの碑文は生まれた。

 時代は朝鮮戦争を挟んで米ソ冷戦と核開発が激化するころでもあった。

 「褐色の真珠」と称された国際法学者ラダ・ビノッド・パール博士が碑文の前に立ったのは、原爆慰霊碑の完成から3カ月たった52年11月。世界連邦アジア会議に出席し、碑文を通訳してもらうと憤った。

 「『過ちは繰返しませぬから』とあるのは日本人を指す。原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭(りょう)。落とした者の手はまだ清められていない」。不戦を誓うのは原爆を落とした米国・。博士は主語のない碑文を痛罵(ば)した。敗戦でうちひしがれ、原爆への恨みを公言できなかった被爆者らが、博士の言葉に共感を持ったのも事実だった。

 雑賀教授は反論した。「『どうしても自分の考えを伝えたい』と。碑文に信念と確信を持っておられた表れです」。広島大の後輩教授になる鳥越良雄さん(84)=同市佐伯区海老園2丁目=が、英文の抗議文をタイプで打った。

 「碑文は全人類の過去、現在、未来に通ずるヒロシマの市民感情を表した。米国がどうのと、せせっこましい考えで霊前に向かったものではない」。末尾には「至心(誠実な心)にて祈れ 平和の扉開かれん」と一句が添えられていた。

 パール博士の主張は「アジア民族主義」に根差す。碑文批判の際、こうも言っている。「過ちが前の戦争を指しているなら、それも日本の責任ではない。戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のためにまいたことは明瞭」と。日本人戦犯の無罪を主張した底流もそこにある。

 しかし雑賀教授の原爆への忌避意識もまた強烈だった。教授は市広報紙に書いた碑文解説に「20世紀文明が犯した最大の過ちは広島の原爆であった」とつづる。

 雑賀教授一家も4人が被爆した。夫婦と京都大から帰省中の長男は皆実町の家で、二男は旧制広高で農作業中だった。家は傾き、壁や窓が吹き飛んだ。幸い家族は無事だったが、同僚や知人を多く亡くした。原爆体験を語らなかった教授だが、死者の名前を書いて日に一度は読経した。終戦2年前には広高初の出陣学徒18人を見送ったこともある。戦争を忌み嫌う原点がそこにある。

 パール博士の論争から18年後の70年2月。碑文論争が再燃する。広島で結成された「原爆慰霊碑を正す会」が「碑文は残虐無類の行為の責任を抹殺する」と改正を市に求めた。原水禁団体はこれに反論し、当時の山田節男市長は半年後、「碑文は変えず」の判断を下す。「碑文の主語は『世界人類』であり、人類全体に対する警告、戒めである」との理由だった。

 パール博士と雑賀教授は、このいわば「第二次碑文論争」を知らない。雑賀教授は61年に67歳で、パール博士もその6年後に81歳で鬼籍に入った。ただ少なくとも2人に共通した認識は「新たなヒロシマを作らない」ことではなかったろうか。

 原爆投下から半世紀。今また、米国立スミソニアン航空宇宙博物館の原爆資料展示が米在郷軍人会などの猛反発で中止になった。「原爆投下と言うが、先に仕掛けたのはだれか」。そんな言い分。広島市は一貫して「原爆の惨禍を繰り返すまい」と訴えるが、50年たっても投下国には「絶後の惨禍」は理解されにくい。碑文論争の底流は、発言の主体こそ違え、流れ続けているのかもしれない。

 だが雑賀教授の長男で京大名誉教授の亜幌さん(70)=京都市西京区大原野=は、節目の年のスミソニアン論争が気になる。「互いに恨み合ったのでは永遠に争いは絶えず、霊も安らかに眠れない。人類全体が争いをやめよう・との碑文は、今となって正しかったと思うんです」。父親似の老学者は物静かに語る。

 雑賀教授がパール博士にあてた抗議文の中に、英訳碑文がある。米イリノイ大の知己を通じて練り上げた訳文。邦文に主語はなかったが、英文では過ちを繰り返さない主体は「We」であった。

 この英訳文を知る藤本さんは「不戦を誓うのは碑文の前に立つ『世界市民』すべて。主語のあるなしは議論の本質でない」と代弁する。

 長男の亜幌さんは広島に帰れば必ず、また二男の飛龍さんも毎年8月6日、原爆慰霊碑に参拝して父の碑文と対面する。「原爆犠牲者を思えば、生き残ったわれわれは常に碑文に込められた決意を新たにしなければ…」。飛龍さんが厳粛な面持ちになった。

 雑賀教授は碑文論争から5年後の定年退官の際、「広大新聞」でこう語っている。「全世界よ、全人類よ、日本の方を向いて『右へ倣え』。碑文は全人類への号令である。こんなはっきりしたことが読み取れないのですか。頭が悪いですね」。超然とした野人教授の面目躍如ではないか。


≪中国新聞 あの日再録 52・11・7≫
 パール判事が投げ掛けた碑文論争は、各界の有識者らにも波紋を描いた。解釈は実に千差万別。広島訪問の各人が明らかにした見解のまとめである。言葉は違っても、共通するのは「再び惨禍を起こさない」決意のように思える。

  ◇   ◇

 <評論家・矢内原伊作氏>「この言葉を僕は立派だと思う。なにが過ちであるかを反省しつづけること、そして過ちを決して繰返さないといい切ること、これは容易なことではない。しかしこのことがなされない限り、犠牲者たちは決して安らかに眠ることができないに違いない」

 <作家・堀田善衛氏>「『過ちは繰返しませぬから』。だれがいったい過ちを犯したのか。答はいろいろあるかも知れない。しかしそれにしても、もしこれがいつもいつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立った誓いであるならば『過ちは繰返させませんから』でなければならないのではなかろうか」

 <原子物理学者・武谷三男氏>「私は広島の人に、どういう風にして過ちを繰返さず、原爆で死んだ人をやすらかにねむらすことができるかをききたい。私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちがくり返されそうです』と書きかえるべきだと思う」

<参考文献>「市政秘話」(浜井信三)▽「青春回想録・広高その永遠なるもの」(広島高等学校同窓会)▽「広島原爆戦災誌」(広島市)▽「ヒロシマに歳はないんよ」(ヒロシマ・ナガサキを考える会)など

(1995年4月16日朝刊掲載)

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