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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <14> 原爆の子の像

■報道部・西本雅実

 「原爆の子の像」と「世界平和記念聖堂」。ともに広島市が復興途上にあった1950年代に建設され、原爆犠牲者の慰霊と平和への誓いを新たにするヒロシマの代表的な記念碑・建造物である。

 像のモデルになった佐々木禎子さんは多くの映画や小説にもなり、その数だけの「物語」が一人歩きしている。聖堂建設を実現させたドイツ人神父フーゴー・ラサールさんの存在は、信徒ら以外は知る人とて少なくなった。被爆から五十年という時の流れが、伝説と忘却を生む。

 「平和のシンボル」となった少女と忘れられた神父の在りし日を、2人を実際に知る関係者の証言と記録から追う。「歳月」という厚い装いに埋もれた事実を掘り起こすことでしか、「原爆神話化」「ヒロシマの風化」をくい止めるすべはないと思うからである。


伝説と化した「千羽鶴」

 身長139センチ、体重31キロ。12歳になって間もない一人の少女が1955年2月、広島赤十字病院の玄関をくぐった。8カ月後に亜急性骨髄性白血病のため息を引き取った佐々木禎子さんである。

 一人歩きする禎子さんの「物語」は、この病院名にもみられる。小説ばかりか記録書にすら「禎子さんは原爆病院で亡くなった」とある。が、広島原爆病院の開院は翌年である。

 「こちらに来る直前に、ABCC(原爆傷害調査委員会)で亜急性リンパ腺(せん)白血病と診断されていました」

 現在、安佐南区で開業する沼田丈治医師(73)は、そう言いながら黄ばんだ大学ノートを繰る。広島赤十字病院の小児科副部長時代、禎子さんの主治医だった。ノートの表紙には英字で「ルーケミア」。当時診た白血病の子供たちの克明な治療記録である。

 初診及び入院「2・21」。退院「10・25(死亡)」。禎子さんのあまりにも短い生は、闘病生活247日の末ついえた。しかし、そのほむらが消える最後まで懸命に生きた。

 禎子さんは爆心地から約1.6キロの楠木町1丁目の自宅で被爆した。この被爆地も、禎子さんの葬儀に立ち会ったとまでいう人が幾度も「三篠町」と書き続けたためか、今もそう引用されることが多い。

 禎子さんが最後に通った幟町小6年の時のあだ名は「日本ザル」。男子顔負けの跳び箱、リレー競走の学級代表だった。その快活さは入院してもしばらくは変わらなかった。検温時間にも小児科病棟にいないのは珍しくなかった。

 「『本当に病気なの』と思うくらい病院中を走り回っていた」。禎子さんとベッドを並べていた大倉記代さん(54)=東京都在住=はそう振り返る。彼女は胸を患い、その前年から小児科病棟にいた。

 2人部屋へ5月に移って来た禎子さんは、2つ年上の大倉さんを「お姉ちゃん」と呼び甘えた。一人っ子で育ち読書好きの大倉さんは、初めはおっくうに感じた。

 それが、ひとつの出来事をきっかけに、禎子さんの胸のうちに隠されていたおびえを知る。

 梅雨がじとじと続く7月4日。顔見知りの5つの女の子が亡くなった。そろって霊安室に足を運ぶと、禎子さんがぽつり「うちもあんなになって死ぬんかね」。禎子さんの薄い肩を抱き締めながら、大倉さんは涙が止まらなかった。

 「彼女は、内心では自分が重い病気だと気づいていたと思う。それも原爆に関する病気だと思っていたのでは…」

 大倉さんも南観音町で被爆した。2人とも原爆をあれこれと話題にする年ではない。それで断定した言い方は避けるが、記憶の断片を積むと、そうとしか思えない点がある。

 原爆資料館の説明文にもある「鶴を千羽折れば病気は治ると信じながら…」という、あまりにも有名になった禎子さんと折りづるのきっかけはいつ、どのようにおこったのか。それこそ諸説あるが、大倉さんは、7月末に名古屋の女学校からセロハンでつくった折りづるが病院に贈られて来たのがきっかけと言う。

 原爆10周年のこの年の8月4日付中国新聞紙面に、名古屋からの折りづるが大きく記事となっていた。まだ折りづるの見舞いは珍しかった。

 愛知淑徳高青少年赤十字団員が「原爆患者に差し上げて下さい」との手紙とともに、赤、黄、紫などのセロハンによる折りづる4千羽を日赤広島県支部に贈った。うち2千羽が広島赤十字病院に配られた。同室でありながら、なぜか禎子さんしか受け取らなかった。

 「きれいね。私たちも折ってみようか」。どちらから言うともなしに、2人はつるを折り始めた。

 病棟を回っては包装紙を集め、はさみで5センチ四方に切っては折る。たまるとひもに通し、カーテンレールにぶらさげた。退屈さを紛らわせるつもりが、たちまち夢中になった。看護婦から「もう寝る時間よ」と言われるほどだった。

 原爆忌の前日は外泊許可を得て、基町で理髪店を営む両親、兄や弟、妹の6人で家族だんらんを持った。

 禎子さんの父繁夫さん(79)と母フジ子さん(76)は、長女の余命はわずかと覚悟していた。それでもつましい暮らしから費用をねん出した輸血や、ABCCから供与の抗がん剤で、何とか発熱と出血を抑えていた。

 禎子さんは、大倉さんと競うようにつるを折った。鼻歌まじりに「原爆を許すまじ」をハミングしながら、折ることもあった。この年、広島で原水爆禁止世界大会が始まり、歌声は病院内にも届いていた。

 大倉さんは9月に入り自宅療養となった。それまでに折ったつるは、2人とも千羽を超えていた。達成を喜び合った。禎子さんの物語が初めて映画化される時に周りから尋ねられ、大倉さんはそう伝えた。が、受け入れられなかった。

 新聞も後に「960羽を折って倒れた」などと書くようになる。すると、大倉さんの名前や学校名などを間違えながら「彼女の証言によると事実は…」とする「記録」も出る。「物語」が新たな「物語」を生んだ。

 禎子さんは秋が深まるに連れ衰弱していった。母は店を終えたその足で病室に向かい、毎晩のように娘と同じベッドで寝た。みつ編みをすいてやると、なぜか毛が抜け落ちた。

 「根をつめると苦しくなるぞ」。

 ベッドでつるを折り続ける娘に父が言うと、娘は「ええから。ええから。考えがあるんよ」と気丈に答えた。針を使って羽を折る極小の折りづるも作るようになった。

 10月半ば、体温は平熱から40度近くまで乱高下するようになり、関節部の痛みは下肢(かし)全体に広がる。大人でも悲鳴を上げる痛みに、歯をくいしばって耐えた。ついに痛みは頭部にまで及び、皮下出血をみた。

 10月25日朝。その前夜も泊まり込んだフジ子さんからの電話で、家族5人がまくら元にそろった。

 父は娘にこう呼び掛けるのが精いっぱいだった。「茶漬けを食べるか?」。「うん…」。タクアンを添えた茶わんからふたさじほど口に運んだ。「あー、おいしかった…」。それが最後の言葉となった。午前9時57分だった。

 禎子さんはABCCで解剖の結果、甲状腺がんも併発していた。

 死後、病室から1枚のザラ紙が見つかった。禎子さんが生前に記し続けていた「血球表メモ」である。12歳の少女がなぜ、そうした行為を思いついたのか。その数字を一人どのような思いで書き留めていたのか。その無言の叫びを記したメモは、いま、原爆資料館に保存される。


幟町小6年竹組 団結の会 級友の死を悼み像建立

 これは ぼくらの叫びです/これは 私たちの祈りです/世界に平和を きずくための(「原爆の子の像」の碑文)

 佐々木禎子さんの死去から3年後の1958年5月5日、「原爆の子の像」が平和記念公園で除幕された。建設には全国の児童、生徒から約580万円(利子を含む)の募金が寄せられた。その引き金になったのが、禎子さんと同じ幟町小6年竹組の級友の呼び掛けであった。  「罪もない禎子を奪った原爆が憎い。子供ながらの純粋な怒りがあった」。竹組の子供たちでつくった「団結の会」を率いた地後暢彦さん(52)=広島市中区=はそう言う。

 竹組の児童は禎子さんを含め63人。半数近くが原爆に遭ったり、戦争で親を失っていた。地後さんも爆心地から1.2キロで被爆した。禎子さんの死を自分のこととしてとらえた。

 禎子さんとリレー選手を組んだ川野(旧姓横田)登美子さん=広島市中区=は「中学に入ってからは、禎ちゃんを見舞う回数が少なくなっていた。それで『何かしなくては』という気持ちに駆り立てられた」と話す。

 そもそもは、禎子さんのお墓を作ろうというのが始まりだった。そこへ、幟町小の担任だった野村剛氏や後に広島「折鶴の会」世話人となる河本一郎氏の勧めもあり、像建設となる。

 川野さんは禎子さんの死の翌月、広島市内であった全国中学校長大会の会場で、河本氏とともに「原爆の子の像を作りましょう」のビラを配った。在籍していた幟町中に募金が集まり、それが市内の小、中、高校による像の建設主体「広島平和をきずく児童生徒の会」結成へとつながる。

 「像は禎子のためのもの」。地後さんは長い間そう思っていた。しかし、親となり、娘の教科書にも「原爆の子の像」が出るのを見て、その考えは変わった。

 川野さんも「いまの子供たちに、原爆の恐ろしさ、平和の尊さを伝えるのに像をつくってよかった。それにかかわれたことを幸せに思う」と話す。

 「団結の会」の名称は使わなくなったが、禎子さんの級友たちは卒業から四十年たった今も、年に必ず一度は集まる。

<参考文献>「こけし 星の一つに」(幟町中「こけしの会」)▽「折り鶴の子どもたち」(那須正幹)▽「破壊の日 外人神父たちの被爆体験」(カトリック正義と平和広島協議会)▽「世界平和記念聖堂」(石丸紀興)▽「コロニア戦後十年史」(パウリスタ新聞)▽「日本のイエズス会史」(イエズス会日本管区)など

(1995年4月23日朝刊掲載)

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