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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <27> 核廃棄物 

■報道部 福島義文

 害があっても消滅させることができない「魔物」を、人間の英知は作り出してしまった。放射性物質。半永久的に放射能が消えないものさえある。原子力発電所を稼働すれば必ず出る「核のごみ」でもある。今は土に埋めるしかない。原発立国の日本なのに、核廃棄物の処理問題は俎(そ)上に乗りにくい。

 その放射能の恐怖を歴史に刻んだのがチェルノブイリ原発事故であった。人間の命をむしばむ惨禍に、被爆地広島や国内から医療救援は続く。原爆の惨状を体験し、告発してきたヒロシマが、そして人間が、この「消せない」「見えない」魔物とどう対峙(じ)するのか。模索が続く中で被爆半世紀が来る。

開発挫折「業」背負う 「原子力半島」下北・六ヶ所村

 春の雨が身を刺す。本州の北端、青森県上北郡六ケ所村のむつ小川原港。フランスから返還された高レベル放射性廃棄物が日本に初めて搬入された四月二十六日、元村長の寺下力三郎さん(83)は輸送船をにらみつけた。鉄条網が港内への立ち入りを拒む。

 「人間が作った終生の『業』を、村が背負ったな」

 国内の原発の使用済み核燃料を海外で再処理した際に出た「核のごみ」。輸送船からトラックに積み替えられる特殊容器の中には、ガラスで固めた廃棄物二十八本が納まっていた。高熱。雨にぬれた容器から白い蒸気が立ちのぼった。寺下さんには「悪魔の煙」にも思えた。

 旧ソ連のチェルノブイリ原発事故から、ちょうど九年目の同じ日だった。

 港から専用道路を三キロ。尾駮沼(おぶちぬま)を囲む村内の七百五十ヘクタールの広大な原野に「核燃料サイクル施設」が張りつく。ウラン濃縮工場、放射性廃棄物の埋設施設、そして使用済み核燃料の再処理工場。

 三十二年前に始まった日本の原子力発電は今、電力供給の三割強を賄う。その終末のごみを埋め、新たな燃料を作る「核サイクル」。さいはての核集積地では、未操業の再処理工場の建設工事などが次々と進む。

 下北半島への核燃施設の立地が、青森県に要請されたのは十一年前の一九八四年である。当時、知事だった北村正哉さん(79)は「青天のへきれきだった」と回想する。

 だが、熟慮の末に「地域振興の起爆剤」と立地を受け入れる。要請からわずか一年後。「短い」と批判されたが、専門家に安全性を尋ね、海外の再処理工場を視察した後の決断だった。下北半島ではそれまで十数年間、「むつ小川原開発計画」の挫折が影を引きずっていた。

 日本が高度成長をひた走る六九年、新全国総合開発計画の一つとして閣議決定された「むつ小川原開発」は、六ケ所村など三市十三町村圏域に石油工業地帯を作る大計画だった。

 下北半島は、冬は地吹雪、夏も冷たい東風「やませ」が吹く。自然条件は厳しく農業もままならない。工業立地による産業構造の転換にかけざるを得ない事情があった。

 寺下さんは当時、助役から村長になったばかり。だが、開発計画には一貫して反対の姿勢を取り続けた。「辺地の者が腹いっぱいになる宣伝ばかりするが、巨大開発には必ず陰がある」

 計画以来、村内には不動産業者が横行し、原野の値段が十倍になった。土地を手放し、村内の計画区域外に移った人は立派な家を建てた。しかし石油ショック、国内産業の空洞化…。ついに企業は来なかった。

 当初計画になかった石油備蓄基地ができたほかは、買収された広大な土地だけが残った。巨大開発の残滓(し)。その利用が「核燃」立地の下地だった。

 寺下さんは言う。「自分が村長時代に開発計画を止められず、結果的に危険な核燃施設の種をまいた」。一期で村長を辞めた後も、雑貨屋をしながら反核燃運動を続けてきた。

 気骨の元村長が「核燃から郷土を守る住民連絡会」の会長になって一カ月後。八六年四月にチェルノブイリ原発事故は起きた。安全神話は崩れ、万一の危険が現実になった。

 この事故をきっかけに、村内では反対運動が高まる。漁港の主婦らは海域調査の阻止に体を張り、若い農業者らも施設白紙撤回の署名に立ち上がった。

 「やっぱり核と農業は共存できませんよ」。酪農を営む佐々木敏さん(49)が乳牛を絞りながら言う。チェルノブイリの放射能は日本の雨にも混じった。英国の再処理工場の周辺では牛の奇形が生まれたと聞く。「因果関係の立証は難しいが、核施設が身近にあるわれわれの牛乳は大丈夫なのか」と自問する。

 放射能は目に見えない。もし漏れれば、土から牧草、牛を通して人間に入る。「しかも漏れた時は遅い」。二十世紀の繁栄のつけである「核のごみ」が、村民の誇りになるだろうか。

 佐々木さんは、かつて反核燃コンサートを企画した。「むらおこし」と銘打ったが、以来、反対派のレッテルを張られる。最近も集落の代表が冬の防寒柵(さく)の設置を村に頼んだ。役場は「佐々木はまだ反対してるか」と尋ねる。遠回しの圧力。常設防寒柵が簡易柵になった。

 村内の核施設は八八年から次々着工された。特にウラン濃縮工場が操業を始めた九二年ごろから、住民は物を言わなくなった。運動も下火になっていく。「既成事実の積み重ねが、あきらめにつながった」と佐々木さん。

 村一番の企業は、核燃施設を運営する「日本原燃」。次が役場である。家族が原燃や下請けに勤めれば「反対」は言えない。前村長時代、遺跡発掘の作業員募集さえ反対住民は締め出された。ムラ社会の中で村民は貝になる。

 だが…。昨夏、農業の菊川慶子さん(46)が返還高レベル廃棄物の是非を問う住民アンケートをした。全戸の八千八百戸に配り、約六百戸から回答があった。率は八%と低いが、大半は反対意見だった。住民は無関心を装うが「本心では核施設を受け入れていない人も多い」。そう読み取る。

 村から東京に集団就職した後、古里が「核の村」になるのを懸念し、家族を説得して村に帰った。ミニコミ紙で反核情報を村民に伝え続ける。

 アンケート後、廃棄物を問う「住民投票条例」制定の直接請求運動をした。意外にも必要署名の三倍の五百三十人分が集まった。しかし村議会は否決。意見を反映させる場は少ない。

 人口約一万二千人の村は今、核燃料施設の「恩恵」に包まれる。「電源施設」を受け入れた見返りの交付金は八年前から計百九十一億円にのぼる。一般会計予算は九十七億円と小さな市並みだ。村内では公共施設や農漁業の基盤整備が進む。

 最近、交付金で牛乳加工場の建設計画が持ち上がった。しかし佐々木さんは考え込む。産地間競争の激しい農業事情の中で、「核施設が集中する村の牛乳を買ってもらえるのか」。交付金の裏で「重い荷物」を背負ったと思う。

 国のある局長が、寺下さんに言ったことがある。「日本も工業化すれば、その『トイレ』がいる。だが東京の真ん中では具合が悪い。人の少ない所に作らざるを得ない」と。「むつ小川原開発」計画のころである。「あの時点から下北を核のごみ捨て場に見据えていたんですな」。悔しそうに記憶をたどる。

 「『核のごみ』は電力会社の金庫や国会議事堂の下に保管するわけではない。埋められる辺地は迷惑」。核利用の「負」の側面は棚上げし、「利」の部分だけ先取りした結果が六ケ所村に凝縮する。寺下さんにはそう思えてならない。

 村役場で土田浩村長(62)が語る。「核施設に百パーセント安全はあり得ない。検討を重ねてやっと『安全性が保てるなら』と受け入れている」。推進派だが慎重でもある。チェルノブイリ事故では、自分で欧州の汚染地区を歩いた。

 「村民の命と引き換えの交付金」と非難されると反発する。「核施設の立地では、地元が一番『いたみ』を負っている」。語気が強まった。

 土田村長は言う。「ウラン濃縮工場で『外堀』、低レベル廃棄物施設で『内堀』を埋められ、再処理工場で『本丸』を明け渡す。このままでは本当に『核の墓場』。だから今、次世代の安全エネルギーとして研究される国際熱核融合炉の誘致に名乗りを上げた」。

 下北半島には六ケ所村のほか、隣の東通村に原発、突端の大間町には新型転換炉の建設計画がある。「原子力半島」と呼ばれるゆえんである。

 その新型転換炉も電気事業連合会が計画変更を国に要請した。六ケ所村の高レベル廃棄物の最終処分地も決まっていない。課題は先送りしながら国内の原発は増える。土田村長は「国がエネルギー政策の明確な方針を出すべき」と求める。安全性の議論に国民が無関心のまま、村が核施設を背負い続けるのはやり切れない。

 六ケ所村は沼が多く、水位が浅い。地震もある。それに三沢基地から年間二万回以上の米軍、自衛隊機が飛ぶ。「やっぱり核燃施設の適地でない」と寺下さんらは考える。

 しかし「日本原燃」の説明は違う。例えばウラン濃縮工場。「岩磐まで掘り下げて建物の地盤を固め、室内の気圧を下げて放射能拡散を防ぎ、コンクリート壁は厚さ一メートル。対震設計で飛行機墜落にも耐えられる」。安全論議は専門家を含めてもかみ合わない。

 高レベル廃棄物が初搬入されて二カ月後の今月初め、寺下さんはむつ小川原港に立った。国内の原発から出る低レベル廃棄物を積んだ輸送船がドラム缶を降ろす。船名「青栄丸」。青森の繁栄の願いが込められている。

 霧雨にけむる港で、寺下さんがつぶやく。「人間は科学の力で『消せない物質』を作ってしまった。半永久的に放射能を出し続けるものもある。その物質がたまるのを知りながら、核を使い続けるのは無責任極まりない」

 年を重ねても「核燃反対」の看板が下ろせない本当の訳がそこにある。

▽六ヶ所村の核燃料サイクル施設(95年7月時点)

1、施設
2、着工
3、操業
4、概要

1、ウラン濃縮工場
2、88・10・14
3、92・3・27 年間600トン濃縮。最終的には1500トン濃縮
4、天然ウランには0.7%しか含まれないウラン235の濃度を遠心分離法で2・4%に濃縮。原発の核燃料に

1、低レベル放射性廃棄物埋設センター
2、90・11・30
3、92・12・8 ドラム缶で5万3440本を埋設。最終的には300万本を埋設へ
4、国内の各原発から出る廃棄物(例えば床洗浄水、作業着、紙、金属など)を埋める。永久埋設

1、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理施設
2、92・5・6
3、95・4・26 仏から初搬入のガラス固化体28本を貯蔵。今の設備は1440本を貯蔵可能
4、仏、英に委託の使用済み核燃料の再処理で出る高レベル廃棄物を、返還後30・50年、一時貯蔵。海外委託の再処理総量は7100トンで、最終的には3千数百本が返還。最終処分地は未定。

1、核燃料再処理工場
2、93・4・28
3、2000年予定
4、国内各原発の使用済み核燃料からウランやプルトニウムを取り出し、再利用へ。完成時には年間最大800トンの処理能力

(1995年7月23日朝刊掲載)

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