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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <16> 原爆ドーム

■編集委員 小野増平

 原爆の悲惨と破壊を人類の永遠の記憶とするため、ヒロシマは被害実態の調査をはじめ、遺跡、証言、記録、資料の保存と収集、復元に努めてきた。原爆によって消えた町を地図上に甦(よみがえ)らせ、その町にかつて暮らしていた人々の生死と被爆史を明らかにしようという「爆心復元運動」、いま「世界遺産化」に弾みがつく原爆ドーム保存も、それらの努力の表れである。運動は多くの例に漏れず、官より民が先行し個人の労に帰する所が大きい。爆心復元では広島市、広島大原爆放射能医学研究所に先立ち、NHK広島中央放送局の若きディレクターのアイデアと局の情熱があった。原爆ドーム保存の陰には広島「折鶴の会」と、会を40年近くにわたって実質的に主宰してきた一人の執念の人がいた。保存と復元をめぐる典型を見る。

孤高貫く「平和の黒子」 「折り鶴の会」の河本一郎さん

 広島「折鶴の会」の、40年近い活動を伝えるうずたかい報道写真を繰ると、多くの写真の片隅にひっそりと写っている、まゆの濃い意志の強そうな小柄な男性に気がつく。

 1958年の会発足以来、200人を超す子どもたちと手を取り合い、原爆ドーム保存、被爆者慰問、広島市を訪れた外国人の歓迎などに、「ヒロシマの黒子」として人生の大半をささげてきた河本一郎さん=広島市中区=である。今年、66歳になる。その半生をひもとく―。

 広島市が1回目の官製の原爆ドーム保存募金運動をスタートさせる6年前の60年8月28日。平和記念公園の「原爆の子の像」前で、ドーム保存を訴え募金と署名を呼びかける10人ほどの子どもたちの姿が見られた。

 この年の4月、急性白血病のため亡くなった広島県安芸郡府中町の楮山ヒロ子さん(当時16歳)の残した日記に胸を打たれた河本さんと、「折鶴の会」の会員が始めた運動である。それまでドームをめぐっての存廃論議はあったが、保存に向けての具体的な行動はこれが最初だった。

 集まった小、中、高校生は「原爆ドームを守りましょう」と看板を立て、額に大粒の汗を浮かべながらガリ刷りのビラを配った。ビラには「20世紀以後は原爆慰霊碑の碑文と、あのいたいたしい原爆ドームだけが、いつまでも恐るべき原爆を世に伝えてくれるでしょう」というヒロ子さんの日記(59年8月6日付)が引用され、ドーム保存を訴えていた。

 当時、原爆ドームに対する風当たりは好意的とは言えなかった。新聞は「自分のアバタ面を世界に誇示し同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」(1948年10月10日付夕刊ひろしま)と撤去を主張し、広島市長、知事らも解体論を唱えていた。

 浜井信三市長は53年2月、「原爆の影を残す物は原爆資料館に一切を集め、市民の目の触れるところからは取り去りたい」(2月15日付中国新聞)と述べる。炎の町で市民の救援に命を削った「原爆市長」としては、悪夢を思い出す残骸(がい)を1日も早く取り除き、美しい平和都市ヒロシマを復興したかったのだろう。

 だが、幼いときから国家という怪物が引き起こした戦争、移民といった大きな歴史の波をかいくぐって来た河本さんにとって、「平和」とは被爆資料を展示したり、祈るだけで実現できるとは思えなかった。たゆまない実践と行動でしか手にできない「宝石」のようなものだと感じていた。

 河本さんは広島からペルーに渡った移民の子として29年1月、リマで生まれた。父を2歳のとき失い13歳の春、母と共に故国に帰った。初めて見る祖国と故郷は2人に冷たかった。「勝手に故郷を捨て、食いつめて帰って来て…」

 母子は大阪へ出た。医者にも満足にかかれない貧しさの中で、母は病のため死んだ。孤児となった河本さんは再び広島へ帰る。温かく迎えてくれる親類はなかった。

 原爆。直接被爆こそ免れたものの、翌日から市内に救援に入り廃虚を見、地獄のにおいをかいだ。やがて生まれ故郷のペルーへ帰りたくてYMCAで英語を学び始める。日曜学校を手伝う中で原爆、戦災孤児たちと仲良くなった。

 孤児たちは南米帰りの河本さんを「アンデスのあんちゃん」と呼び親しんだ。河本さんと子どもたちとの結びつきはこれが最初である。その後、米国人宣教師のメアリー・マクミランさん、被爆者の吉川清さんらと被爆者救援、平和運動に駆け回った後、子どもたちと共にする独自の平和運動にのめり込んだ。

 原爆病院を中心に貧しい被爆者を慰問し、ヒロシマに関心を持つ海外の人々と連絡を取り合う。どの組織、団体にも属さず、子どもたちの目の高さの運動をどこまでも続けた。

 子どもたちの河本さんの呼び方は、時の流れとともに「アンデスのあんちゃん」から「河本のお兄さん」、「河本のおじちゃん」へと変わり、子どもたち自身も次々と入れ代わった。が、河本さんは一貫して変わらなかった。

 「時間が比較的自由になる」。それだけの理由で戦後の大半を広島女学院の用務員で過ごした。社会的栄達は毛筋ほども求めなかった。会の活動がすべてに優先した。

 そんな「折鶴の会」が初めて本格的に取り組んだのが原爆ドーム保存運動。だが、2年、3年続けても目立った反応がない。被爆者の中には「そんなものを残すくらいならわれわれを救ってほしい」と募金箱を前に言い捨てる人もいた。

 「やっても、やっても反応がない。寒々とした思いにかられ途中で何度もやめようと思った。しかし、亡くなったヒロ子さんのお母さんの励ましや、ヒロ子さんへの墓参が支えてくれた」。河本さんは当時を振り返る。

 粘り強い運動が徐々に実り始めるのは64年も暮れになってから。原水禁、被爆者、市民団体などが、「折鶴の会」の小さな訴えにやっとこたえ始めた。市議会にも動きが見え出す。

 66年7月11日夕刻。南段原町にあった「折鶴の会」の狭い事務所は、座りきれないほどの会員が集まっていた。市議会がドーム保存を決議するとの見通しが伝わっていた。

 「午後7時ごろ、記者の人が2人飛び込んでこられて、保存が決まったと教えてくれました。うれしくて…。みんなで涙を浮かべて喜びました」。当時、熱心な会員だった三上栄子さん(49)=広島市南区=は思い出す。最初の署名・募金運動から実に6年がたっていた。

 「折鶴の会」は不思議な会だ。これまで200人以上の子どもたちが参加した。が、長く続く子はまれ。中学、高校を卒業すると自然に会を離れていく。「結局、子どもを利用しているだけ。自分のグラウンドで、自分の思うように動かしている。教育ではない」の批判もここから出る。

 しかし、三上さんはそうは思わない。「人の役に立つということを教わった。入ってよかった」。三上さんは高校を卒業してからも暇があれば会をのぞいた。

 前広島女学院高校の校長で、「広島キリスト者平和の会」会長の橋本栄一さん(69)は河本さんを「個性が強く主体的な運動をする。本能的に組織を嫌い、個の運動に徹する。そんなことから誤解されることも多いが、ヒロシマを背景にした必死の生きざま、実践のすごみを人生そのもので示す人だ」と評する。

 広島市がドームの保存工事完工を記念して作った小冊子、「原爆ドーム保存記念誌 ドームは呼びかける」。保存に至るまでの経緯などをまとめながら、88ページの冊子の中に「折鶴の会」についてはわずか一行、「折鶴の会も募金を行った」と記しているだけである。

 こうした批判や批評に対し河本さんは多くを語らない。「子どもに多くを期待しない。できることだけやってヒロシマの人間としての常識さえ培ってくれればいい。決して子どもに無理をさせたことはない」。去る子は追わず、来る子はこばまなかった。行政や他の平和団体・組織についても「ぼくは小学校しか出ていないし、こんなものでしょう」と淡々としている。

 昨年の広島女学院退職後は、退職金を年金とし「何かやれる職があれば」と、市のシルバーセンターに応募した。死ぬまでボランティアとして行動できればと言う。

 4月5日のヒロ子さんの命日を前にした日曜日、河本さんは例年のように広島市東区の専光寺で「折鶴の会」の子どもたちと一緒にヒロ子さんの墓前に花を供え、折りづるを飾った。

 ヒロ子さんに原爆ドームの「世界遺産」指定の可能性が高まったことを報告し、黙とうした。時折、雲の合間から差す日差しが、供えた赤や黄色の折りづるをひときわ鮮やかに浮き立たせる。「ヒロシマの黒子」を貫く孤高の平和活動家の頭はすっかり白くなった。

樹脂でレンガを補強 保存工事の佐藤重夫氏

 「最初はどうやって保存しようかと悩みましたよ」・。広島市の依頼で二度にわたって原爆ドームの保存工事をした佐藤重夫広島大名誉教授(82)=廿日市市=は、当時を振り返る。

 復元保存ならそれほど難しくもなかった。しかし、被爆し建築物として用をなさなくなったものを、破壊されたままの状態で保存するのは、口で唱えるほどやさしいことではなかった。

 実測してみると、目で見えるヘアクラック(毛筋ほどの割れ目)が延長で3キロ、割れ目というより裂け目が1キロ以上あった。加えてレンガは積み重ねているだけで鉄筋が入っているのはほんの一部分。「エポキシ樹脂を注入し、壁体を固着させてしまうことが可能と分かったときは、跳び上がって喜びましたよ」

 戦前は逓信院西部逓信総局の建築技師として広島市白島に勤務していた。「運命の日」、東京へ出張中で被災を免れたが、多くの同僚、知人を失った。被爆から4年目の1949年には、鎮魂の意を込めて平和記念公園の設計コンペに応募したものの、東大の後輩の丹下健三氏に一席を奪われ涙をのんだ。

 それだけにドーム保存には力が入った。「レンガのような無機物をエポキシ樹脂のような石油製品の有機物で結合するのは邪道」「エポキシ樹脂は高価すぎる」などの批判に対しても「結果で答えを出す」と耐えた。

 2度の保存工事を経たドームの耐久力について佐藤さんは「まず半永久的」と言う。しかし、心配がある。阪神大震災のような地震が襲った場合。「震度5なら問題はない。だが、6、7になると一部が落ちる恐れがある」と懸念する。

 このため、ドームを囲んで地下30メートルまで地中に土を固めた円形のさくを作るべきと提案する。「ドームの基礎は地下2メートルほどしかない。地盤は砂で、大地震が来ればひとたまりもなく流動化現象が起きる。三十メートルまで掘れば硬い洪積層に達する。ここまで固めればまず問題ない」と言う。

 被爆から10日後に帰った広島のドーム周辺は、歩くこともできないほどがれきが山積みとなっていた。「人類にとって負の遺産であれ、『世界遺産』となることはすばらしい。ぜひ実現してほしい」。50年、ドームを見つめてきた老学者の熱情があふれる。

<参考文献>「原爆爆心地」(志水清編)▽「爆心地」(広島折鶴の会)▽「ドームは呼びかける」(広島市)▽「原爆ドーム物語」(汐文社編集部)▽「アンヘルの名とともに・河本一郎小伝」(河口栄二)

(1995年5月7日朝刊掲載)

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