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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <19> 原水禁運動の分裂①

■報道部 岡畠鉄也

 日本で最大の大衆運動となった原水禁運動は政党の介入によって変質した。運動の柱となった日本原水協は社会党・総評系と共産党系に分裂。多くの市民や被爆者は運動に距離を置いた。

 原水禁運動が世界の平和運動に大きな影響を与え、核軍縮に一定の役割を果たした点は否定できない。しかし、市民、被爆者をかやの外に置き、主導権争いを繰り広げて運動を停滞させた指導者の責任は重い。

 分裂が決定的になった1963年の第九回原水禁世界大会と、運動に長くかかわった2人の活動家の生きざまを通し、原水禁運動の虚像と実像を見る。

消耗・傷心 分裂の夜 1963年の第9回原水禁大会

 月の上がる前の淡い夕闇(やみ)が、芝生をうずめつくした参加者たち、あらゆる地方からの代表者たちを、黒ずんだ波のように見せている。彼らは緊張している…。大江健三郎氏は「ヒロシマ・ノート」に、あの夜をこう書き出した。

 広島市の平和記念公園を埋めた「黒ずんだ波」の前には全学連の学生約60人が占拠していた。「核実験に反対もできない大会は即刻解散せよ」「学生帰れ」。やじと怒号が渦巻く。やがて学生は警官にゴボウ抜きにされる。縄張りの外で市民は黙り込み、その光景をじっと見つめていた。

 1963年8月5日の第9回原水爆禁止世界大会。社会党・総評系がボイコットした分裂大会はこうして幕を開けた。政党同士のむき出しの主導権争いを背景に、ヒロシマの願いから遊離し、反核世論を長く停滞させた原水禁運動分裂の夜だった。

 「広島市民には今でも申し訳なく思っている。政党の力をはねのける知恵も勇気もわれわれには無かったということだ」

 伊藤満・元広島大教授(84)は、武蔵野の面影が辛うじて残る東京都八王子市の自宅で、32年前の悔しさをかみしめた。伊藤さんは当時の広島県原水協の事務局長。理事長の故森滝市郎氏とともに大会運営の責任者だった。「原水禁大会の灯を消してはならないという一心だった。広島で開けば何とかなると思っていたんだが…。見通しが甘かったんだ」

 ビキニ被災を契機に原水禁運動が国民運動として盛り上がり、第1回原水爆禁止世界大会が開かれたのは55年である。初めて明らかにされた被爆の生々しい真実に人々は驚き、涙した。やり切れなさ、深い憤りが「ノーモア・ヒロシマ」という一つの誓いに結実する。

 それからわずか8年。原爆慰霊碑前は人間の憎悪がぶつかり合う修羅場に変わってしまった。思想・信条を超えた純粋な国民運動として始まった原水禁運動が、なぜ変質してしまったのか。そのきっかけが、国民の政治意識が戦後最も高揚した日米安全保障条約改定問題(60年)にあったというのは歴史の皮肉である。

 その年の第6回原水禁世界大会は決議に「アメリカ帝国主義」という文言が登場、イデオロギーが前面に出る大会となった。この動きにまず自民党が反発。61年には民社党系が日本原水協と分かれ核禁会議を設立する。

 政治色が濃くなるにつれ、日本原水協に強い影響力を与えていた共産党系と社会党系の路線の違いが組織内にくすぶり始める。対立は61年9月のソ連核実験再開をめぐり決定的になった。「いかなる国の核実験にも反対」を運動の原則にする社会党に対し、共産党は反米反帝国主義を土台に「防衛的立場の社会主義国の核実験を、帝国主義国の実験と同列に論じるのは誤り」と反論。62年の第8回大会はこの「いかなる問題」で混乱し、日本原水協は機能停止状態に陥った。

 やらなければならぬから、やるのだ・。63年5月24日、東京で開かれた日本原水協の理事懇談会。第9回大会の開催を求める広島県原水協の森滝理事長は、煮え切らない理事らに思わず声を強めた。

 社共対立はこの年一層先鋭化し、ビキニ被災9周年の3月1日、日本原水協は安井郁理事長ら執行部が総辞職する異常事態となった。第9回原水禁世界大会の開催も危うくなり、危機感を強めた広島県原水協は、中央の動きとは別に地方原水協の連帯で運動を再生させる道を探り始める。接着剤的な役割を果たしたのは山口県原水協だった。

 「山口の社共は仲が悪くなかった。広島も学者レベルでは対立は感じられず、広島を中心にまとまると思った」と、山口県原水協理事長だった安部一成東亜大学長(68)は振り返る。

 地方連合で中央を包囲・。広島県原水協の呼びかけで広島に集まった地方の原水協代表者たちは「地方が連帯してでも大会を開く」ことを申し合わせる。森滝氏はその決意を持って上京していた。

 だが、運動を組織拡大の道具としか見ない政党関係者には、対立の中で純粋な声を受け止める余裕さえなかった。総評の安恒良一政治局長は「地方の動きで中央まで動かせると思うのは思い上がりだ。指令を出せば地方原水協の中心になっている県労、県評を引き揚げさせることができる」とまで言い出した。

 大会を開けない日本原水協では存在する意味がない。曲折の末に、総評、社会、共産党の三者による会談は組織の再建、統一で一致。6月21日の常任理事会で第九回大会の開催が決まった。森滝氏はその夜「地方の熱意が中央を動かした」と祝杯を上げる。だが、乾杯の音は分裂への序曲にすぎなかった。

 原水協の常任理事たちまでもが、途方にくれて廊下をうろうろしベンチに座り込んで嘆息したりしているのだ。そしてみんな挨拶の言葉のように、《いかなる国…》とつぶやいている…。(「ヒロシマ・ノート」)

 8月4日、広島市の平和記念館は、明日に迫った第9回大会の運営をめぐり調整が難航、重苦しい雰囲気に包まれていた。地方の熱意で動き出した日本原水協だが、大会の準備過程で「いかなる問題」が再燃。さらに、米英ソ3国が7月末に仮調印した部分的核実験停止条約が新たな対立の火だねになる。

 社会党が「原水禁運動の成果」と条約を支持、共産党は「地下核実験を残したままでは幻想を与えるだけ」と、中国に近い主張をする。背景には、当時激しかった中ソ対立があった。正常化を求める浜井広島市長や大学人の声も届かない。

 夜になっても会議は暗礁に乗り上げたまま。広島県原水協の事務局次長だった北西允・広島修道大教授(69)は近くの平和会館で、伊藤満事務局長の帰りを待っていた。どの役員も疲労の色が濃い。伊藤氏が苦渋の表情を浮かべて戻った。運営を広島県原水協に白紙委任することが決まったというのだ。

 「白紙委任を推し進めたのは社会党系。広島県原水協の幹部構成をみて広島に任せれば有利と考えたのではないか」と北西氏は回想する。が、目算はすぐ崩れる。激しい動員合戦は共産党が圧倒的に有利な展開。共産党のペースで進むと判断した社会党、総評系は「分散会をやめ一日だけの大会に」と申し入れるが、伊藤氏らは拒否。結局、社会党・総評系は五日夕、開会直前に大会不参加を決定した。

 平和記念公園で開会を待っていた安部氏に山口県労評の代表が近寄ってきた。「私は参加できない。しかし原水協の旗は大切にしてください」。学生たちが原爆慰霊碑前を占拠したのはその直後である。会場周辺の警備を担当していた広島県労の姿は既になかった。

 森滝理事長の孤独な基調演説が始まった。「ヒロシマ・ノート」はこう描く。「彼(森滝氏)が報告しているあいだ、背後の慰霊碑の前にはこの大会にまったく無関係な動きがある。死者の家族たちが花をささげ香をたいているのだ。ギリシャ悲劇のコーラス隊のように、壇の前でおこなわれる劇の栄光と悲惨をもっとも鋭く浮かびあがらせる役割をはたすように思われる」

 森滝氏は被爆者の立場から「いかなる国にも反対」の姿勢を貫き、演説にもその言葉を入れた。だが、社会党系が抜けた聴衆は演説を受け入れない。やじさえ聞こえた。

 広島県原水協は開会総会終了後、日本原水協に運営権を返上。森滝氏も伊藤氏も姿を消した。一方、社会党・総評系7000人は翌6日、広島市内で独自集会を開く。その集会は原水爆禁止日本国民会議(原水禁)誕生につながる。

 「日本の市民運動の弱さなのだろうが、分裂当時は第1回大会のころに国民を覆った核の緊張感はなかった。動員や財政面から運動の担い手としてプロが出てくるのは必然だった。学者も渦の中にすっぽり入り込んでしまった」。そう反省する北西氏は大会に最後まで関与し決議文案を作成するが、分裂への自己批判や統一への努力は削除され共産党色の強い反米反帝一色に塗りつぶされてしまう。

 「消耗」「傷心」の形容詞を残し分裂の夏は終わる。以後、原水禁運動は長い停滞のトンネルに入る。市民、被爆者を縄張りの外に置き党利党略に走った原水禁運動のツケはあまりにも高かった。原爆歌人の故正田篠枝さんは、分裂、変質した運動をこう詠(よ)んだ。

 人類の滅亡は原水爆にあらずして”こころ”と思う内観の果て

<参考文献>「ヒロシマ・ノート」(大江健三郎)▽「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」(中国新聞社編)▽「原水爆禁止運動」(今堀誠二)▽「安部一成論文選集5」▽「広島新史 歴史編」(広島市)▽「平和運動20年運動史」(日本平和委員会編) (1995年5月28日朝刊掲載)

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