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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <27> 医療貢献

■報道部 福島義文

 害があっても消滅させることができない「魔物」を、人間の英知は作り出してしまった。放射性物質。半永久的に放射能が消えないものさえある。原子力発電所を稼働すれば必ず出る「核のごみ」でもある。今は土に埋めるしかない。原発立国の日本なのに、核廃棄物の処理問題は俎(そ)上に乗りにくい。

 その放射能の恐怖を歴史に刻んだのがチェルノブイリ原発事故であった。人間の命をむしばむ惨禍に、被爆地広島や国内から医療救援は続く。原爆の惨状を体験し、告発してきたヒロシマが、そして人間が、この「消せない」「見えない」魔物とどう対峙(じ)するのか。模索が続く中で被爆半世紀が来る。

 
真心の治療 命つなぐ チェルノブイリ救援に立つ市民団体

 それは私たちの一番幸せな日・新居への引っ越しの日に起こったのです。夕方にはお客を呼んで、新しい家での生活に喜びもひとしおでした。

 でも、夜になってあの恐ろしい瞬間が起こりました。避難があり、新しい生活もみな、夢と消えてしまったのです。

 それでも、その後、随分長い間、生まれた土地に戻れるのだと信じていました。ボブキン一家より

 この手紙は、旧ソ連ウクライナのボブキン一家が日本の母親にあてた一節である。チェルノブイリ原発から5キロ内の原発労働者の街プリピャチ市に住んでいた。夫婦と娘の3人家族。史上最悪の放射能事故は1986年4月26日、突然、街を襲った。

 手紙は「世界で初めて核戦争の悲劇を知った国の皆さん。私も恐ろしい事故で子どもの健康が心配でならない母親です…」。そう書き出してあった。

 医療救援に立ち上がった市民団体「チェルノブイリ救援・中部」が、被災地と日本で呼びかけた手紙の交換。一家の便りはそのうちの1通だった。

 ほかにも苦悩がにじむ数々の手紙。「子どもたちは病むようになりました。貧血、肝臓病…。『病気の束』です」「放射能で汚染された食品を与え続けることに心が傷みます」

 たった一回の原発事故で苦しみ抜く被災地の叫びが胸を揺さぶる。

 その夏、高汚染地域を歩いたメンバーは衝撃を受けた。初の現地調査派遣で訪れた2人である。放射能測定器は日本の平常地域の80倍を示す。許可を得て原発の近くまで行くと、針はビンビン振れた。ウクライナの穀倉地帯には目に見えない放射能が染みていた。

 牧草が汚染され、牛乳は飲めない。ジトーミル州立小児病院には顕微鏡さえなかった。救援の方向が見えた。カンパで粉ミルク一トンを届ける。初の救援物資だった。

 物を送っても、旧ソ連の体制混乱で物資がやみ市場に流れると言われる中、現地と連携して切り開いた救援ルート。粉ミルクは今、年末の定期便になっている。ミルク缶にはカンパを寄せた人のメッセージや写真を張る。「顔」が見えるようにと思うからだ。

 「被爆国への期待を感じるんですよね」。事務局長の河田昌東さん(55)=名古屋大助手=が言う。医療データや日本での治療要請も多い。しかし、まず現地の医療態勢を充実させたい。だから医師を日本に招き、名古屋や広島の病院で放射能研究や医療技術を学んでもらう。これまで延べ12人。その研修後、医師が必要な医療機器を贈る。

 超音波診断装置、保育器、抗がん剤…。届けた医療機器や医薬品は5年間で計1億2000万円分にのぼる。「自立へのサポートが本来の救援」と信じている。

 支援経費の四割は国際ボランティア貯金交付金で賄うが、あとは小口カンパの積み重ね。「当初はしんどくて、国が支援を始めれば手を引きたかった。でも苦しむ人の声が聞こえるとね…」と初代代表の戸村京子さん(46)。「『生きる勇気』を持ってもらえて初めて救援。心のつながりが命をつなぐんだから」

 活動2年目のこと。マカレビッジ村の女教師のニーナ先生が、児童の絵50枚を送ってきた。画用紙には猛々と煙を吐いて燃える原発、廃虚の庭に転がる人形やおもちゃ、鼻血を垂らしてベッドに横たわる少女などが描かれていた。

 ニーナ先生に、登校する児童がつぶやいた。「また鼻血が出たの」「私は頭がグラグラして気分が悪かったわ」。事故当時、汚染は住民に知らされなかった。子どもをどう慰めたらいいのか。先生の長男も甲状腺(せん)を病んでいた。

 「絵は衝撃だったが、救援を続ける力も与えてくれた」と河田さんは言う。

 昨年夏、ニーナ先生は被爆地の広島を訪れた。児童の絵や文通を通じ、「チェルノブイリ救援・中部」のメンバーの金沢市の女教師や子どもたちと交流が進み、その招きでの来日だった。被爆者の体験を聞いた先生は思う。「戦後49年たった今も、爆死したわが子に語りかける母たちの叫び。ウクライナの母たちも同じように泣いている」。被爆地ヒロシマと原発被災地ウクライナが、胸の内で結ばれた。

 ニーナ先生はヒロシマ、ナガサキの被爆体験を語り継ぐ朗読劇「この子たちの夏」も見た。ロシア語訳ももらっていた。帰国した先生から「子どもたちが朗読劇を上演している」と便りが届いた。

 「チェルノブイリ救援・中部」の窓口であるジトーミルの新聞社の編集長が、同会にこんな言葉を寄せている。「原爆の苦い経験を持つ日本とウクライナの被曝(ばく)者が経験を交換し、原子力の危険性を語り合いましょう」と。

 医療支援は「発生した惨事」に対するサポートである。では放射能被害の発生源の「原発」に、救援運動がどう向き合うのか。

 河田さんは言う。「原発の評価はさまざまだから、会ではこの問題は決着させない。『人道』が最大公約数」。しかし、これまで2回、反原発の声明を会として出した。4年前、福井県の美浜原発で緊急炉心冷却装置が国内で初めて作動した際、関西電力に運転再開の中止を求めた。一昨年は稼働中のチェルノブイリ原発閉鎖をウクライナ政府に要請。局面ごとに議論を重ねながらの対応である。

 旧ソ連は、河田さんらが活動を始めて間もなく、崩壊した。その後は物不足、物価高騰…。粉ミルクも2年間で3000倍になった。病院に贈ったミルクは、超高価な「薬」になっている。ウクライナ独立後の経済混乱の中で、被災者らの自立も足踏みしつつある。

 チェルノブイリ原発事故まで、放射能災害は口で言われるほど世界的な関心も持たれなかった。その被災から10年目。ジトーミルから送られてくる最新情報は、こう伝える。「汚染地域内に40万人がなお居住」「汚染していない食料品は肉、野菜で三、四割」…。

一昨年、現地を訪れた河田さんは原発に近いある街に向かった。ボブキン一家がかつて住んでいた、あのプリピャチ市である。

 街は今も「廃墟」のままだった。しかし、13万人が強制移住させられたはずの30キロ圏内には、約2500人が帰り住んでいた。それも老人ばかり。畑を耕し、井戸水を飲む。公的援助は何もない「消えた街」の夜。ポツリ、ポツリとランプの灯がともっていた。ウクライナ政府も「老人は死に場所を選ぶ権利がある」と黙認する。

 「死の街」は野生動物の王国でもあった。うっかり雪道で車がひいてしまったシカの左腹には、「がん」のこぶが大きく盛り上がっていた。  動物を、自然を、そして人間をむしばみ続ける「見えざる魔線」。救援活動は終わることがない。

医師派遣11回低線量被曝究明に意欲 ジュノーの会

 チェルノブイリ支援活動のネットワークの一つに、府中市の「ジュノーの会」がある。原爆投下一カ月後、広島に医薬品を持参したスイス人医師マルセル・ジュノー氏の献身に打たれ、活動を始めた。

 88年9月の発足以来、被災地の子どもや医師招へい、広島大原医研や同大医学部などの協力による現地への医師派遣を続けてきた。特に医師の派遣は既に11回と力が入る。

 「だが医療貢献が専門的になるほど、それを支える自分たち市民運動とのかい離を感じる」と代表の甲斐等さん(45)。医療協力が大きな運動になる半面、会は資金調達だけに終始するように思えるからだ。

 ただ、ウクライナの現地を踏んだ広島の医師は、子どもに甲状腺がんが異常に多い事実を垣間見た。原爆後の広島では、早期多発の事例は少なかった。医師たちは、新たな放射線障害の究明に意欲をみせる。資金難の会だが、それを懸命に支えてきたのが実情だ。

 一度に大量の放射能を浴びた原爆のデータが、原発事故のような長期にわたる低い線量被曝(ばく)の救済に当てはまるか論議もある。しかし民間の医療協力で被災地の医療水準が高まり始めたのも事実である。

 「運動を始めて7年。あえぎながら、ここまで来た」と甲斐さん。「チェルノブイリで医療貢献できれば、広島が世界の『核被害救済センター』になれる可能性がある」。それにはボランティアと行政の支え合いも必要と考えている。

<参考文献>「六ケ所村の記録」(鎌田慧)▽「青森六ケ所村」(寺光忠男)▽「プルトニウムの未来」(高木仁三郎)▽「原子力白書」(原子力委員会)▽「原子力安全白書」(原子力安全委員会)▽「たった一回の原発事故で」(チェルノブイリ救援・中部)▽「とどけウクライナへ 私たちのチェルノブイリ救援日誌」(坂東弘美)など

(1995年7月23日朝刊掲載)

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