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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 最終回 <30> 伝える(下)中国新聞②

■被爆50周年取材班

 「平和は戦争の後にしかやって来ない」との悲観論が支配したこの50年、幸いにも世界規模の戦争はなかった。ヒロシマ、ナガサキの体験が核兵器の残虐さを人々の脳裏に刻み、恐怖のバランスが核の使用を瀬戸際で押しとどめてきた故なのだろう。被爆都市のつとめは、その被害を世界に伝え続けることにある。常に新しいイメージと力でヒロシマ、ナガサキを伝え続けることができれば、体験の磨滅はなく、新しい悲惨を食い止めることも可能となろう。中国新聞のヒロシマ報道の半世紀はそうした試みの1つでもあった。「検証ヒロシマ1945・95」を終えるに当たって「中国新聞は何を伝えたか」を振り返る。

原爆報道50年 そして未来へ

 
◆60年代以降

 盛り上がった原水禁運動は60年代に入って、政治色を強め、政党の対立から組織分裂に直面する。中国新聞報道は運動分裂に対し社説を中心に厳しい批判を展開した。63年8月4日には「ヒロシマは泣いている」との見出しで「雲の上の平和運動」に怒りの声を特集した。さらに、64年3月20日の社説は、「広島が平和運動の『貸し座席』になることはまだ許されよう。(しかし)政党宣伝の『貸し座席』にすることは10数万の声なき出席者に対する許しがたい侮辱」と原水禁運動の変質をヒロシマの犠牲者の視線から批判した。

 同時に、取材の目は広島、長崎以外の「隠された被爆者」にも向かう。64年に11回連載された「沖縄の被爆者たち」はその1つ。記者は米軍統治下にあった沖縄にスポーツ取材の名目で訪れ被爆者にインタビューした。このほか、故バーバラ・レイノルズさんらの「世界平和巡礼」に同行し、「世界の中のヒロシマ 平和巡礼団に同行して」(64年・39回)を連載するなど中国新聞の原爆報道は徐々にその取材の範囲を広げていった。

  ▽歴史として記録
 被爆20周年の65年、中国新聞の原爆報道は1つのピークを迎える。「被害」「平和」「継承」の3つの大きな柱のもとに、30回の1ページ特集を連続掲載という当時とすれば画期的な紙面を展開した。特集は「世界にこの声を」「炎の系譜」「広島の記録」。そして「復興」に焦点を絞った夕刊連載の「廃虚からの道 広島復興裏面史」である。

 記事の背景には、貧困と病苦にさいなまれる被爆者が、社会から取り残され結婚や就職差別を受けるようになっていたという厳しい現実があった。一方、伝える側の記者も20年を経て客観的に「原爆被害」をとらえ始め、歴史として記録しようとする意識が芽生えていた。

 68年には中国新聞は沖縄の被爆者に続き、「忘れられた被爆者・韓国からの訴え」(3回)として実数さえつかめない在韓被爆者を初めてルポした。在韓被爆者問題は、現在まで続く問題として息長く報道され続けている。

  ▽援護法制定に力
 そうした中、高度経済成長期を迎えた60年代後半から70年代に入ると、原爆、被爆者問題が見えにくくなってくる。国民全体の生活水準の上昇に伴い、被爆者の苦しみが目に見える形でとらえにくくなってきたためである。

 「原体験としてのヒロシマ」より「シンボルとしてのヒロシマ」の比重が少しずつ大きくなり、報道も「原点もの」と呼ばれる被爆者を対象としたものに、核兵器廃絶、平和、軍縮問題に焦点を合わせた「平和もの」が加わる。さらに原子力発電所問題も身近な問題となるが、間口が広がった分だけ問題が拡散するのは否めなかった。

 「被爆者もの」は高齢被爆者、被爆2世問題が中心となった。報道の方法はマンネリを避けるため、資料を掘り起こし現在につなぐ手法、原爆病院、原爆養護ホームなどをルポし被爆者問題をあぶり出す手法など工夫をこらした取り組みが目立ち始める。原爆医療法、被爆者特別措置法として結実した「原爆二法」の限界を指摘し、「被爆者援護法」を求める援護法企画もこのころから始まった。

 「平和もの」は、米ソの核競争時代にあってシンボルを継承する「平和教育」企画、故荒木武広島市長らの国連訪問(76年)と、78年の「第一回国連軍縮特別総会」を機に始まる「国連もの」が中心となった。

 ただ、「平和」「国連もの」は、広島の世界化に貢献する一方で、いわゆる国連を絶対視する「国連幻想」を生み、ヒロシマの理念が先行する現実感の薄いものになりがちだった。このため、原体験の継承を重視した連載が積極的に展開され、この時期以降、「平和もの」と「原点もの」がヒロシマ報道の車の両輪となる。

  ▽原発事故も視野
 80年代前半は、ヨーロッパで高まった反核運動などを背景に「平和運動のシンボル」としてのヒロシマ報道がいよいよ盛んとなった。また79年の米スリーマイル島、86年のソ連チェルノブイリ原発事故を契機に、原発、核実験による被害者を、ヒロシマにつながる「被爆者・被曝(ばく)者・ヒバクシャ」ととらえ、ヒロシマからそれら被災者を見据えた報道も登場、それまでの「原点もの」「平和もの」に加え、「ヒバクシャもの」とも言える新しいジャンルを確立した。

 また、米国の地方紙記者らを広島、長崎に招き、自分たちの目でみた被爆地を報道してもらうという新しい試みもこの時期を中心に約10年間、実施された。最近になっては、「被害者」としての広島だけでなく、当時の日本軍国・侵略主義を体現した都市として「加害者」の面も見詰めるべきだとの報道も展開している。原点被爆者報道も粘り強く続き、それぞれの報道は、いずれも連載期間が半年から1年といった長期にわたったのが大きな特色である。

 あの日から50年。中国新聞のヒロシマ報道は営々と続いてきた。破壊された都市の復興、失われた人々の慰霊、傷ついた被爆者の救援、核兵器の使用を許さず核の犠牲者を出さない、との誓いを実現することが目的であった。

 だが、この間にはマンネリ化し、形式化し、報道のための報道、夏だけの季節報道となった例も少なくない。一方で、悲劇性を追求するあまり、行き過ぎた取材が被爆者の心を傷つけたこともあった。

 言葉も手あかにまみれ力を失った。いわく「ヒロシマの心」「被爆の実相」「被爆者の心」「核兵器廃絶」…。国連幻想、被爆者聖人幻想、ヒロシマ聖都幻想などさまざまな幻想も生んだ。

 「ヒロシマの実相に触れ、ヒロシマの心を学んだ」…。使い古した言葉で定型化した幻想を描くことは、自らの報道を足元から崩して行くことにほかならない。ポスト被爆50年。幻想にもたれかかることなく、現実に根差しながら目的を実現していく報道姿勢の必要性が、さらに重みを増している。

寄稿 中国新聞に望む 反核運動へ参加機運起こせ 安部一成さん

 私が昭和40年代初めごろから中国新聞の購読を始めた2つの大きい理由の1つが、核関連の報道の多さであった。それは原水禁運動に加わっての私のささやかな実践の必要に基づいたものである。第一に行動を持続させようとすれば、被爆の実相へのしばしばの接触が欠かせない。証言者の生の声を聞ける機会は限られるから、中国新聞によるこの面のさまざまな報道は貴重である。第二は核兵器廃絶を目指す国内外の運動の様子を知ることは多大な励みとなる。第三は核をめぐる情勢に関する、他紙の追随を許さない報道、解説と見解提示は運動を進めて行くうえで大切な判断材料となる。

 今年に限っても、1つは半世紀にわたって生き抜いてきた被爆者の過酷な生活史を通して、エノラ・ゲイ副操縦士の発した「われわれは何をしてしまったのか」(「ニューズウィーク」日本版7月26日号)の問いの深刻さをあらためて認識させ、さらに「検証ヒロシマ」によって「ヒロシマ」の現代における深い意味合いをかみ締めることができた。

 ただ、中国新聞の読者は核にかかわる記事をどれほどよく読んでいるのだろうか、とりわけ若い層のどれだけの人たちが読んでいるだろうか、まったくの杞憂(きゆう)にすぎないかもしれないが少々気になる。とはいうものの中国新聞は、「原爆偏向」の声が一部にあるにせよ、多くの読者に核兵器反対の意識を植え付け、定着させるうえで計り知れない役割を果たしてきたと思っている。将来におけるいわゆる「風化」の進展の可能性を阻むためには、年月の経過とともにますますリアルな表現でもって被爆の惨状が伝えられなくてはならない。このこととの関連で、年々生まれてくる中国新聞社の新人たちの姿勢が問われることになろう。

 ところでほとんどの人たちが核兵器に反対し、核兵器のない世界を望んでいるとみてよいのだが、反核の行動に加わっている人は少ないようだ。広島県原水禁被爆50周年記念集会への参加者の少なさに伊藤サカエ広島県被団協理事長が「こんなことでいいのか」と言っている(中国新聞7月30日)。核兵器には反対だが、現実問題として核兵器をなくすることは不可能に近く、どうしようもないと思い込んでいる人が多数を占めているのではないか。このように見ると、核兵器を廃絶していく道筋が私たちの行動の在り方とともに具体的に示される必要があると考えたいが、そのためにはどうすればよいのか。

 被爆の実相を国内外に一層の周知徹底を図っていく努力を傾注しながら、反核を声高に唱えるレベルを超えて、「核時代」を超克するために世界政治を揺り動かす方途は見いだせないのであろうか。

 私は中国新聞がこのような重厚な問題に限りなく迫っていく報道と主張を繰り広げていくよう期待している。そうすることが、「中国新聞は原爆をもてあそんでいる」といった心ない悪口を一掃するにとどまらず、少なからざる人々に行動への動機づけとして作用するような気がする。私は主体的に行動する者が1人でも多くなり、国内はもとより国際範囲で連合して運動を続けていけば、核兵器廃絶の展望が開けてくる、そのようなメッセージを中国新聞が自信をもって発することができるようになってほしいと願っている。

原爆報道 OBからひとこと 「こう思う」もっと書け

問われる記者の歴史観 大牟田稔さん(64) 広島市東区二葉の里
 地をはいずり回って被爆者の実態をすくい上げ続けてきたことが、日本報道史の中での中国新聞の功績だろう。半面、原爆報道が情緒に流れた側面もある。問題は被爆50年以降。被爆の実態を伝え続け、「核兵器廃絶」や「平和」の大儀は引き続き追求すべきだが、形式的な核廃絶の訴えに安住せず、その前に横たわる、例えば貧困や環境問題などにも踏み込む必要があろう。それらの問題を1つずつ片付けていくことが、核問題の解決にも近付く道と考えねばならない時代になった。これから一番大事なのは、記者個人が世界観、歴史観を持ち、そこを根城に書いていくこと。漠然とした原爆報道では平和が身近に感じられなくなる。今後、メディアに求められるポイントではなかろうか。(92年3月退職)

「こだわり」持ち続けて 河田茂さん(66) 広島市中区舟入川口町
 「もし自分に原爆を落とされたら…」を取材の原点にしてきた。どんな人間にも公平に、平和に生きる権利がある。それを侵すのは最大のごう慢。それに対する反骨だったかもしれない。多くの被爆者に出会ったが、原爆で人生が狂ったのは間違いない。「継承へ原体験を叫ばねば」と言われるが、大半の被爆者は貝になったまま何も語らず死んでいった。「語るが是か、語らざるは非か」。広島は、外から見ただけでは見えず、内からも見え切れない。奥深い街だ。50年の節目を過ぎて、広島はどう変わるのか、どう変われというのか。変わってはいけないものもある。記事の執筆はやめても原爆にはこだわっている。被爆者ではないが、広島の人間である限り、物を言わせてください・そんな思いだ。(87年9月退職)

取材者にも体験継承を 浅野温生さん(64) 広島市南区皆実町
 死ぬべきはずが生き永らえた。自分たち旧制広島二中(現観音高校)の2年生の身代わりとなって300人の1年生が爆死した。その後ろめたさをいまだに引きずっている。1年生はあの日、平和記念公園へ建物疎開に出動し全滅した。2年生は前日の5日、ほぼ同じ場所にいた。作業割り振りの偶然が生死を分けた。新聞記者になってからは、むやみに被爆の悲惨さを強調するのではなく「普通の人が原爆に遭ったためにこうなった」という落差の大きさを伝えようと心掛けた。被爆者の話を聞けば、あのときのうみのにおい、血のりの感触、死臭をまざまざと思い出す。その体験を語る人すらいなくなり始めている今、記者にも組織的な被爆体験の継承が必要なときだと思う。(93年12月退職)

(1995年8月13日朝刊掲載)

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