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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第1部 おびえる大地 <4> 古里

■記者 下久保聖司

住む町失い心の傷深く

 福島第1原発から半径20キロ圏の「警戒区域」。その中、福島県浪江町で生まれ育った医師標葉(しねは)隆三郎さん(58)は、立ち入り禁止の検問所前に立ち、唇をかんだ。「先祖の墓はこの先5キロ。実家も10キロ先にあるんです」

 昔から半農半漁の町だった。忘れられない古里の味が近海産のちりめん。「あれも、もう食べられないかも」。放射性物質を含む原発の汚染水が海に流され、茨城県沖では既にコウナゴ(イカナゴの稚魚)から高濃度のヨウ素が検出されている。

 「古里を失う危機になって、その大切さをあらためてかみしめている。土も海も汚された…」。知人や友人は住む家を追われた。標葉さんも宮城県と接する新地町の妻の実家に身を寄せる。

病院を一時閉鎖

 事故当時、南相馬市で病院長を務めていた。原発から23キロ。1号機の建屋が爆発した翌3月13日、病院内は大混乱に陥った。エックス線などを扱う診療放射線技師でさえ動揺し、「ヨウ素剤を飲ませてほしい」とせがんできた。

 事故前には約180人いた医師や看護師、事務員たちスタッフも、くしの歯が欠けるように姿を消した。4号機までが火災を起こした3月15日。朝礼には40人が参加したが、夕方には12人しか残らなかった。入院患者に転院・退院してもらい18日から約2週間、病院を一時閉鎖した。

 医療関係者でさえ、正しく理解していない放射線。首都圏に避難した子どもが「放射能がうつる」と、いじめを受けたというニュースに心が痛んだ。「広島、長崎の記憶が風化している。政府の対応の遅れにしても、農産物の風評被害にしてもそう」

 自戒の言葉でもある。東北大の医学生時代。必須科目の「放射線基礎医学」の講義を真剣に聴いた記憶がなかった。

水爆実験の調査

 放射線を強く意識し始めたのは2005年。米国の水爆実験場だった太平洋マーシャル諸島・ビキニ環礁の住民の健康調査メンバーに当時勤務していた東北大病院の教授代理として選ばれた。そして水爆実験から半世紀以上が過ぎても、住民の体をむしばみ続けていることに衝撃を受けた。

 今回の原発事故では風の向きや強さに注意したという。ビキニで日本の第五福竜丸を襲った「死の灰」について当時聞き、放射性物質の降下が頭にすぐ浮かんだからだ。あの時と同じことが自分の住む町で起きた。

 警戒区域内には7万7千人が住んでいた。古里を失う喪失感は計り知れない。「お年寄りは、いつまで気持ちの張りが持つか。ただ、戻っていいとも言えない状況。心のケアをするしかない」。放射線の恐ろしさを知る医師のジレンマがにじむ。

(2011年5月19日朝刊掲載)

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