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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第1部 おびえる大地 <5> 被爆者

■記者 河野揚

放射線 見えぬ恐怖再び

 「目に見えぬ ものに逐(お)われて 春寒し」

 避難所で俳句ノートにつづった。転々としたため、もうどこで詠んだか定かではない。遠藤昌弘さん(85)。着の身着のまま逃げたから本当に寒かったと振り返る。雪も降った。脳裏をよぎったのは、広島で逃げる時に浴びた「黒い雨」だった。「これも汚染されとるに違いねえ」。肩に降りかかった雪を急いで払いのけた。

 66年前、徴兵され、病気療養中だった現在の広島市西区で被爆した。もともとは福島市出身。居を構えた南相馬市で、今度は福島第1原発事故に遭った。「まさか2度も、放射線におびえることになるなんて。腹立たしい」。絞り出すようにそう言った。

警戒区域に4人

 家は、原発から18キロ。地震による避難指示を受け、妻(82)、長女(56)と一緒に県内の避難所を転々とした。立ち入り禁止の「警戒区域」(原発から20キロ圏内)になった今、長女の知人を頼り、相模原市に仮住まいする。

 福島県によると、事故前に警戒区域で暮らしていた被爆者は4人。広島で被爆したのは遠藤さんともう1人。2人は長崎の被爆者だ。いずれも避難生活を強いられている。

 今回の原発事故を、遠藤さんが「腹立たしい」と繰り返すのには理由がある。古里に戻って小高町(現南相馬市)に就職。1980年代には、新規の原発建設に向け、周辺道路整備の用地買収交渉に携わった。

 町側の責任者として地主に向け言った。「原爆と原発は別物。核の平和利用がこれからの日本に必要です」。自分は何をしてきたのかというじくじたる思いがにじむ。

 広島は「あの日」熱線と爆風で焦土となった。一方、今の古里は―。「津波の被害がなかった地域は何も変わんねえ」。見た目には山も川も海も変わりはない。ただ人間の姿が消えた。代わりに「目に見えない」放射性物質がはびこる。

 19歳のとき広島市南区翠の自宅で被爆した福島県原爆被害者協議会会長の山田舜さん(84)。その後、福島大で教えるようになった縁で福島市に住む。自らの半生と今の福島の若者を重ねる。母は被爆から約20年後、胃がんで亡くなった。3年前には自らも胃がんの手術をした。健康不安を感じ続けてきた。

「不安を除いて」

 福島原発事故は2カ月たった今も収束していない。福島も広島のように復興できるのだろうか―。「福島の若い人にわれわれ被爆者と同じ苦しみを味わわせたくない。長期的に健康をフォローし、不安を取り除いてほしい」。そう切に願う。=第1部おわり

(2011年5月20日朝刊掲載)

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