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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第2部 情報統制 国が優先

■記者 山本洋子、下久保聖司

 フクシマはヒロシマ・ナガサキに続く、日本の核被害として世界に記憶された。世界最悪の事故を起こした福島第1原発。しかし3月11日の事故発生当初から、この惨事の情報は自治体や住民に正確には伝わらなかった。国は6月7日、国際原子力機関(IAEA)への報告書で情報公開の失敗を認め、国際社会への謝罪を表明している。国はどう情報を発信し、伝達はなぜ不十分だったのか。3カ月余りで見えてきたことを検証する。

≪事故発生≫ 無線と発表 ギャップ大きく

 「原発から白煙の情報」。叫ぶような甲高い声が無線機から響いた。東日本大震災が発生した3月11日の夜。福島第1原発から約38キロ離れた福島県川俣町の車検代行業安部義雄さん(40)は趣味のアマチュア無線で避難誘導する消防団員の緊迫したやりとりを聞いていた。

 しかし、そばに置くラジオからは「原発はコントロールできています」。枝野幸男官房長官の落ち着いた声が聞こえてくる。「何を言ってるんだ」。安部さんはそのギャップに、最悪の事態を国が覆い隠そうとしていると感じた。

 翌12日も無線機から怒声が響いた。「撤退だ」「原発に白煙。爆発するぞ」―。1号機の水素爆発をラジオが告げたのはその1時間後だったと記憶する。

 そもそも1号機の水素爆発は、原子力安全・保安院が格納容器の圧力を下げるベント実施で爆発の危険性が下がったと示した直後だった。海水注入やベントなど初期対応の遅れで事態が悪化する中、国や東京電力の説明は迷走。「2、3号機は対策を準備した」「格納容器は健全だ」。楽観的ともとれる見解は、その後も次々と覆された。

 そして事故当初から指摘されてきたメルトダウン(炉心溶融)。東電は当初「損傷の可能性」という表現を使い続け、溶融を認めたのは事故から2カ月以上たった5月中旬だった。3月14日までに炉心は溶融し、15日までに大半が圧力容器の底に落ちたとみられる。

 さらに保安院が放射性物質のテルル132を3月12日に検出していたと公表したのは6月3日。これは最初の水素爆発の7時間前に燃料が千度を超えていた事実を示す。西山英彦審議官は「隠す意図はなかったが、国民に示す発想がなかった」と釈明。情報を求める側との意識の乖離(かいり)を露呈した。

 1999年に起きた核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界事故では、連日状況説明に当たった原子力安全委員会も沈黙を続けた。「黒子役に徹し、外部への発表ができていなかった」と班目(まだらめ)春樹委員長。官邸と保安院、原子力安全委、東電のかみ合わぬままの情報の「後出し」は国内のみならず世界に不信感を広げた。

≪放射能拡散≫ 1000マイクロシーベルト 知らずに帰宅

 3月15日夕、飯舘村。フォトジャーナリストの森住卓(たかし)さん(60)は、自らの放射線測定器を撮影した。針が振り切れていた。

 原発から44キロも離れたこの場所で、毎時100マイクロシーベルトを超えるとは想像もしなかった。これまで世界の核実験場周辺や劣化ウラン弾による被害などを取材。核が人体にもたらす影響を訴えてきた。「まさか日本で放射能汚染の拡大に恐怖を感じるとは」と振り返る。

 13日に訪れた双葉町役場前は毎時千マイクロシーベルト超。何も知らず自宅に戻る家族連れの姿も見た。「国家は情報を隠す。住民は今すぐ事実を知る必要がある」。自らブログで情報を発信するとともに、正確な情報に目を向けるよう訴えた。

 実際、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)によって、事故直後から拡散が北西の飯舘村まで延びることを示す試算図は複数存在した。国はそれを認識していたにもかかわらず公開していなかった。

 広島の原爆直後に降った「黒い雨」の調査研究などで放射性物質の拡散は同心円状ではないことが分かっていたにもかかわらず、国は原発からの距離にこだわった。避難指示を見直す方針を示したのは、4月11日になってからだ。

 「パニックになるのを避けたかった」。細野豪志首相補佐官は5月2日、住民に被曝(ひばく)の可能性を伝えるよりも、情報統制を選択したことを認めた。約5千枚に上るSPEEDIの試算図が公開されたのはその後だった。

≪避難指示≫ 原発悪化後に修正次々

 原発の状態悪化に伴い、国は避難指示を3度出した。しかしそれは住民にきちんとは伝わらなかった。地震や津波で緊急通信網は断絶し、地元自治体への伝達が停滞したからだ。各家庭では停電でテレビやインターネットが使えなかったというのもある。

 3月11日当日に、福島県が浪江、富岡、楢葉、広野の4町と連絡を取った記録がないことが明らかになっている。原子力災害対策計画に含まれない葛尾村や南相馬市にはその後も国の連絡がなく、情報不足のまま独自判断を迫られた。

 11日夜に出された避難指示は第1原発の半径3キロ圏内。だが、1号機のベントが遅れ、翌12日早朝に一気に半径10キロ圏内まで拡大した。そして1号機の水素爆発後の12日夕には20キロ圏内まで広がる。

 さらに4月22日には、20キロ圏外で新たに避難を要請する「計画的避難区域」を設定。6月16日にも避難区域外で避難を支援する「特定避難勧奨地点」設定を表明した。

≪今後の課題≫ 調査と公開 住民目線で

 国は6月7日、IAEAに提出した報告書で「SPEEDIのデータも事故直後から公開すべきだった」「情報の正確性を重視するあまり、危険性を国民に十分に示さず、不安を与えた」と全面的に情報公開の失敗を認めた。そして放射性物質の放出がなお続く中、住民が切望する事故収束や復興の見通しも明確には示せないままだ。

 「原則としてすべての情報を公開する」(細野首相補佐官)とする統合対策室は17日、遅くとも来年1月中旬までに原発を冷温停止することを目指す原発収束の工程表の改訂版を発表。だが、避難解除の目安など生活に直結する情報は乏しかった。枝野官房長官も同日、一時帰宅や雇用支援など被災者支援の工程について「必ずしも当初の計画通りに進んでいない」と遅れを認めた。

 今後は、放射能汚染の実態や予測、長期的な健康影響など、より住民に身近な情報が求められる。京都大原子炉実験所の今中哲二助教(原子炉工学)は「当初の情報統制は、チェルノブイリ事故時の旧ソ連のようだった」と指摘。土壌調査や内部被曝の検査などを早期実施するよう求め「地域が自らの未来を選ぶためにも、調査と情報公開を急ぐべきだ」と話している。


「直ちに影響ない」甘い予測

広島市立大広島平和研究所 高橋博子講師に聞く

 世界の核被害などを研究する広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師(42)に、政府の情報発表の問題点などを聞いた。

 原発から20~30キロ圏内の放射線測定値について、政府が事故後しばらく「直ちに人体に影響を及ぼす値ではない」と説明したことに憤りを感じている。

 恐ろしいのは、数年から数十年後にがんができるなどの晩発性障害。今回のような長時間にわたる低線量被曝は、人類にとって初の体験だ。政府は「影響は分からない。最大限の注意を」と発するべきだった。

 今のやり方は1950年代の米国と似ている。旧ソ連との軍拡競争で、米国民が核戦争におびえた時代。広島、長崎の被爆者に白血病が増えていることは伝えず「さほど放射線は恐れる必要はない」と訴えた。

 唯一の被爆国である日本は、どこよりも放射線の影響に慎重であるべきなのに、東京電力に甘い態度を取っている。意見を聞くのも「原子力村」の御用学者だけ。放射性物質の飛散について同心円の距離にこだわったのが象徴的だ。政府や東電のうそを見破れなかった報道機関にも反省が必要だ。

 今後やるべきことは、原発事故の徹底検証。すべての関連資料が国民に開示されるよう、制度改正が必要になる。(談)

(2011年6月22日朝刊掲載)

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