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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第3部 被爆地の変化 <1> 「まやかし」

■記者 金崎由美、山本洋子

原発で繁栄 期待外れ

 「原子力はおそろしい。悪いことに使えば人間はほろびてしまう。でも、よいことに使えば使うほど人類が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう」

 原爆投下から6年後の1951年に出版された被爆体験集「原爆の子」。田辺雅章さん(73)=広島市西区=が中学2年のときにつづった原子力の平和利用への期待は、約千点の作文から収録作品(105編)に選ばれた。

 60年を経た今。「自らの認識を恥じている。『平和利用』なんてまやかしだった」。田辺さんは本を手にとり、絞り出すようにそう言った。3月に起きた福島第1原発事故。4カ月をすぎてなお、放射性物質をまき散らしている。

 生家は旧広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の東隣にあった。山口県内に疎開中、実家のほぼ真上で原爆がさく裂。2日後に家族を捜すため祖母と一緒に焼け跡に入り、残留放射線を浴びた。その後、下痢や発熱の急性症状に苦しんだ。

完全復元は無理

 7歳で両親と弟、家を失う経験は過酷すぎた。「原爆さえなければ…」。やり場のない怒りに胸が張り裂けそうだった。しかし「平和利用」を積極的に肯定することで心の安定を保ってきたという。

 自宅もあった爆心直下の街並みや暮らしをコンピューターグラフィックス(CG)で「復元」する事業を97年から主導。現在、手掛けているのは爆心地から半径1キロだ。その作業をしながら福島の避難住民に思いをはせ、胸が痛い。「失われた街の完全な『復元』は無理。命や健康だけでなく、古里の文化や歴史をも奪うのが放射能だから」―。

兵器に絞り行動

 56年の日本被団協結成大会。大会宣言は「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたった。

 現在の田中熙巳(てるみ)事務局長は「自分たちを悲惨な目に遭わせた核を、今度は平和のため生かしてほしい。被爆者の間に、そんな気持ちがあったと思う」と振り返る。

 健康被害や生活苦、差別に苦しんでいた被爆者たちはその後も、援護と国家補償、核兵器廃絶を訴え、運動を発展させた。しかし60年代、原水爆禁止運動が内部対立を深めたあおりで、日本被団協も分断の危機に直面する。

 「大同団結して核兵器をなくすという一点に絞り、何とか統一して行動するしかなかった。自然と原発の話題はアンタッチャブルになった」  核兵器の恐怖を知る当事者ですら「平和利用」について賛否の強い意思を示せていなかった。それは被爆者が個人、組織として生き抜くための苦渋の選択でもあった。日本被団協が「脱原発」に踏み込んだのは、福島第1原発事故から3カ月たってからだった。

 収束の兆しが見えない福島第1原発事故。原爆で放射線の恐怖を身をもって知り、反核・平和を訴えてきたヒロシマに与えた影響を探る。

(2011年7月13日朝刊掲載)

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