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3.11とヒロシマ

『フクシマとヒロシマ』 第4部 ヒバクシャを診る <1> 貢献

■記者 河野揚

不安軽減 現地で支え

 化学防護服をまとった住民が次々と、真新しい倉庫に入っていく。17日の福島県南相馬市。福島第1原発から半径20キロの「警戒区域」内に一時帰宅後、住民に付いた放射性物質の量などを調べる「中継地点」だ。避難先の広島市南区から浪江町に戻った農業高田秀光さん(59)。「きっちり検査してもらい、安心した」と喜ぶ。

 この中継地点の管理運営の一翼を担うのが、広島大の医師や放射線技師。6月から連日、4人程度が医療班として従事している。頭の先から靴の裏まで検査。事故から4カ月半が過ぎた今も、家の状態を確認し、必要なものを持ち出したい住民の願いを後押しする。

震災翌日に出発

 「どこの大学よりも動きだすのが早かった」。広島大病院高度救命救急センター長の谷川攻一教授(54)は自ら東日本大震災翌日の3月12日、緊急被曝(ひばく)医療チームの第1陣として福島に向けて出発した。以来、計33班195人が現地入りしている。

 谷川教授は振り返る。事故直後、福島県央部の二本松市の避難所には、衣服などに放射性物質を付けた人々が押し寄せていた。しかし除染に必要な水や着替えは不足。「避難者の健康を守るには、除染よりも水分補給と防寒が大事だ」。1平方センチ当たり400ベクレル以上が検出された人の除染を優先させた。「救急医療と被曝医療の両方の知識があったため即座に判断できた」。そう自負する。

 広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)の小児科医、田代聡教授(49)は3月下旬、飯舘村や川俣町などで子ども約千人の甲状腺の放射線量を調べた。その結果は、全員が基準値の毎時0・2マイクロシーベルト以下。子どもへの影響を心配する親の不安軽減に役立てた。広島県内の医療機関などでつくる放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)は3月中旬から7日間、避難者の約1400人の被曝検査に貢献した。

 ヒロシマの医師達は今、その蓄積をフクシマで生かしている。

前例ない低線量

 ただ被爆者医療のノウハウが即フクシマに通じるかというと、そうではない。両者の間に決定的な違いがあるからだ。一瞬に大量の放射線を浴びた原爆と、長期間に低線量の被曝が続く原発事故の差―。原医研によると、その人体への影響の違いは、正確には分かっていないという。

 今、福島とその周辺では前例のない低線量被曝の恐怖に不安が広がる。しかし原爆被爆者で発がんのリスク増加が確認できているのは100ミリシーベルト以上というだけ。低線量被曝が長期化した場合どうなるかは明確ではない。

 福島県民202万人を対象にした県民健康管理調査が間もなく本格化する。

 検討委員会メンバー8人のうち広島の専門家は2人。その一人、原医研の神谷研二所長(60)は福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーとして住民への放射線リスクの説明などに奔走している。

 「正直、今あるデータだけで福島県民の不安を解消するのは難しい。ただ県民健康管理調査の結果などと重ねれば、より安心してもらえると思うんです」

 放射線と人体との関係を探究したヒロシマの医療。この66年は試行錯誤の連続でもあった。その蓄積で何ができ、知見をどう生かすべきなのか。フクシマの現場から展望する。

(2011年7月26日朝刊掲載)

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