×

連載・特集

海自呉地方隊60年 第2部 時代の目撃者 <6> 災害派遣(1995年) 阪神大震災 存在感示す

 自衛隊法が定める任務の一つ、災害派遣。その役割が1995年1月17日、大きくクローズアップされた。阪神大震災である。  早朝、兵庫県淡路島北部を震源にマグニチュード7・3の地震が発生。神戸市を中心に死者6434人、重傷者約1万人、家屋約64万棟の被害が出た。

 海上自衛隊呉地方隊の動きは迅速だった。午前9時35分、輸送艦を神戸沖へと向かわせた。必要な兵庫県知事の派遣要請は出ていない。次いで護衛艦4隻が出港。派遣要請があったのは輸送艦出発から約10時間後だった。

 護衛艦みねぐもはこの日、定期修理に向かう予定だった。中原信久さん(58)=呉市神原町=は「2時間で全員が集合し、急ピッチで燃料と物資を積み直した」と振り返る。

 呉地方隊を含む海自隊は翌18日から陸自隊や消防などと共同で崩れた家屋の捜索活動に当たる。その後は食糧や水の輸送、陸自隊員の後方支援に徹した。任務終了の4月27日までに延べ約25万人を動員。8人を救助、水2万5千トンと非常食19万食を被災地に届けた。

 中原さんは「路上に正座して感謝してくれる被災者もいた。自衛隊だと石を投げられた時代もあった。ようやく認められたんだと実感した」。2011年の東日本大震災でも自衛隊は力を発揮した。

 阪神大震災以降、呉基地から国際緊急援助隊の枠組みでの艦船派遣も続く。1999年は大地震が起きたトルコへ仮設住宅を輸送。昨年11月は台風被害を受けたフィリピンへ、主力部隊が出港した。(小島正和)

市民の「ありがとう」が支え

元呉地方総監 加藤武彦さん(75)=神奈川県鎌倉市

 あの朝、呉の官舎で1人で寝ていて、ぐらぐらっと揺れを感じて目覚めた。間もなく指揮下の阪神基地隊(神戸市)の当直から報告が入った。甚大な被害だという。

 災害派遣になるかもしれない。さあどうする。まずやるべきは人命救助。発生から48~72時間が勝負だ。

 常識的には知事の派遣要請をじっと待つ。だが一刻を争う事態。呉から阪神まで海路は10時間だ。派遣が遅れて、隊員や先輩がどう思うか。被災地も救援を待っている。派遣を決めた。腹さえ決まれば難しいことはない。

 呉地方隊の全部隊に緊急呼集を掛け、午前8時すぎに準備を命じた。いずれ派遣要請があると信じて。艦船が神戸沖に着き、午後7時50分に要請がきた。

 翌18日朝から、隊員の一部を陸自の救助隊に加え、不明者の捜索に当たらせた。結果として8人の命を救うことができた。早く動いたのは正解だった。

 19日から阪神基地隊で指揮を執った。神戸の惨状を見て、呉で指揮していてはどうにもならないと思った。現場から報告を聞くのが遅れ、決断も遅れる。

 クールさも必要だった。艦内に被災者を収容してという声もあったが断った。収容できるのはせいぜい数十世帯。そのため艦が使えなくなる。それより多数の被災者に水を運ぶ仕事が優先した。

 この震災で自衛隊の在り方が変わった。訓練のための自衛隊から行動する自衛隊へ。隊員を支えているのは何か。「ありがとう」という市民の一言なんだ。

(2014年4月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ