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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 吉山昭さん―助け求める声背に家路

吉山昭(よしやま・あきら)さん(81)=広島市中区

「12歳の力では、どうにも。今でも心痛む」

 広島県立広島商業学校(現広島商業高)1年だった吉山昭さんは登校中、爆心地から約1・8キロの広島市皆実町1丁目(現南区)で被爆(ひばく)しました。江波(えば)町(現中区)の自宅を目指して歩く途中(とちゅう)、1発の原爆がもたらした惨状(さんじょう)を目の当たりにしました。「見た者でないと分からん。でも、人を人と思わない戦争や原爆がどういうものか、話しておきたい」と言います。

 12歳だった吉山さんはあの日、学校に遅れそうだったので路面電車に乗りました。学校は、江波にあった校舎が陸軍に取り立てられたため、皆実(みなみ)町の師範(しはん)学校跡に移転していました。学校前の電停「比治山橋」に着くと、校庭に先生や生徒が並んでいるのが見えました。急いで電車から飛び降りた瞬間(しゅんかん)、原爆の閃光(せんこう)に包まれたのです。

 しばらく気を失っていたのか、気付いた時には辺りは真っ暗。やけどはしておらず、頭にみみず腫(ば)れが1筋あっただけでした。ただ、学校の記章付きの帽子(ぼうし)がなくなっていました。「なくしたら始末書だ」と必死で捜しました。「当時は学校で日常的に殴(なぐ)られていて、先生が怖(こわ)かった」

 帽子を捜すのを諦(あきら)めて学校に行くと、塀(へい)が全て倒壊(とうかい)していました。生徒は校庭に倒(たお)れたり立(た)ち尽(つ)くしていたり…。友人の一人が目が見えないというので、足に巻いていたゲートルを解いて友人の腰(こし)に巻き、引っ張って宇品町(現南区)の陸軍共済病院に連れて行きました。廊下(ろうか)までけが人でいっぱいでした。

 その後、自宅を目指しました。御幸橋(みゆきばし)を渡(わた)ると、道ばたには大きな馬の死骸(しがい)がありました。道行く人は皮膚(ひふ)がただれ、幽霊(ゆうれい)のように手を前に出し、ぼろぼろの衣服が腰みののように垂れ下がっていました。千田町(現中区)の広島電鉄本社の向こうは火の手が見えました。

 倒れた家の下敷(したじ)きになった人たちの助けを求める声を振(ふ)り切(き)り、家路を急ぎました。「12歳の力では、どうにもならなかった。でも、今でも心が痛む」

 吉島(よしじま)町(同)の広島刑務所(けいむしょ)の南を抜(ぬ)けたところで、渡(わた)し舟(ぶね)を見つけました。漁村育ちで舟を漕(こ)げたので、近くにいたけが人を数人乗せて、本川を渡りました。

 けが人の中には、片足のすねから下がなく、骨がむき出しになった兵士がいました。「舟入(ふないり)(同)に着くと舟を下り、そのままトットッと歩いて行った。信じられなかった」と振り返(かえ)ります。

 家に着いたのは午後3時ごろ。「生きとらあや」。母タツさん=当時(43)=の喜ぶ姿に気が抜けたのか、人の焼ける臭いが鼻につき、そのまま気を失いました。

 無事だった父保一(やすいち)さん=同(47)、姉富子さん=同(18)=と府中町の母の実家に逃(のが)れ、終戦を迎(むか)えました。「負けて腹が立ち、米国を恨(うら)んだ」。それでも、学校で先生や先輩(せんぱい)に殴られなくなり、「民主主義を感じた」と言います。

 戦後は、電気工事会社などを経て東洋工業(現マツダ)に入社。1957年に結婚(けっこん)し、2人の子どもと5人の孫に恵(めぐ)まれました。

 「戦争も核兵器(かくへいき)もあってはいけないが、簡単にはなくならない。だからこそ、若い人には人を人として大事にする、善悪の分かる人間になってほしい」と願っています。(明知隼二)



◆私たち10代の感想

少しでもできることを

 私は、吉山さんの「若い人が頑張(がんば)っても原発や原爆はなくならないだろう」という言葉に驚(おどろ)き、考(かんが)え込(こ)みました。確かにとても難しいし、全部はなくせないかもしれません。でも、一つずつでも減らしていくため、平和について周りに伝えるなど、ジュニアライターとしてできることを続けたいです。(中2・上岡弘実)

失うことは震災と同じ

 吉山さんは、福島第1原発事故の被害(ひがい)者に対して「生まれた家に帰れないのはかわいそう」と語ります。戦争も震災(しんさい)も、帰る家を失う点では同じです。家に限らず、心の支えとなるものを奪(うば)われた人がいるということを、私たちはあらためて認識し、同じようなことが起きないように努めるべきです。(高1・谷口信乃)

戦時中の厳しさに驚く

 戦時中の学校生活の厳しさに驚(おどろ)きました。1人が規則を破ると連帯責任を取らされたり、1学年上の先輩(せんぱい)から当たり前のように殴(なぐ)られたり、私には理解できません。国の方針で人の価値観は大きく左右されます。なので、安倍政権の右傾化(うけいか)は、日本の平和主義を変えてしまうのではないかと不安を覚えます。(高3・市村優佳)

◆編集部より
 原爆投下後の状況について、吉山さんの記憶には曖昧な部分がいくつもありました。電停で被爆をしたはずなのに、気が付くと爆心地により近い川べりにいたのはなぜか。なぜ自分はやけどをしなかったのか、友人のけがはどんな様子だったか―。

 吉山さんは当時12歳で、今で言えば中学1年生。出来事の細部を覚えていないのは仕方のないことです。取材をしながら、69年前の出来事の「遠さ」を感じました。

 ただ、吉山さんは当時のことを「あまり思い出したくなかった」ため、長らく出身校の慰霊祭にも顔を出していませんでした。ようやく参列し始めたのは10年ほど前のこと。そしてごく最近、新聞で被爆者が自身の体験を語るのを読み「自分の体験も参考になるかもしれない」と思い始めたそうです。「遠く」なったからこそ、語ることができるようになったのかもしれません。

 記憶を胸の内に秘めたまま、語り始めるきっかけを待っている人は、まだほかにもいる。そんな確信を深めています。(明知)

(2014年4月15日朝刊掲載)

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