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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 稲生小菊さん―母と行き違い 募る思い

稲生小菊(いのう・こぎく)さん(83)=広島市安芸区

幼い2人の妹。悲しむ間なく親代わり

 「昔より今の方が、不思議と会いたい気持ちが募(つの)るのです。こんなに平和な世の中に生きていてくれたら、と」。稲生(いのう)(旧姓中島)小菊(こぎく)さん(83)=広島市安芸区=は、再会できないまま被爆死した母コイマさん=当時(38)=を思い続けています。

 あの日は、爆心地から約2・3キロの段原新町(現南区)の自宅に1人でいました。市立第一高等女学校(現舟入高)3年の15歳。学徒動員先の日本製鋼所西蟹屋(かにや)工場(現南区)は、電力不足による「電気休み」でした。

 家の中で洗濯物(せんたくもの)を干していた時です。突然(とつぜん)、強烈(きょうれつ)な光に刺(さ)されました。直後に「ドーン」という音。砂交じりの爆風(ばくふう)に襲(おそ)われ、屋根が崩(くず)れ落(お)ちました。幸い、大きなけがはありませんでした。

 母は祖母とともに義勇隊(ぎゆうたい)として駆(か)り出されており、現在の平和記念公園(中区)付近にいたようです。「心配でしたが、あの近くで原爆が落とされたと分かるはずもありません」。夜になっても2人が戻(もど)らないため、稲生さんは戸坂村(現東区)の親類宅まで歩くことにしました。

 その行動が、2度までも母と行き違うことになってしまった。そう振り返ります。

 被爆から4日後、叔父(おじ)と一緒に焼け果てた市街地に入りました。自宅に戻ると、近所の人から「被災の翌日、大やけどを負った母が帰ってきた」と告げられたのです。あの夜、戸坂に向かっていなければ、と悔(く)やみました。

 被災者が収容されていた学校も回りましたが、見つからずじまいでした。ところが、3カ月後に突然、警察から母の遺骨があると連絡(れんらく)を受けました。足取りは不明ですが、青崎国民学校(現青崎小、南区)にたどり着き、稲生さんの名前を告げてから亡くなっていたのです。

 稲生さんは、その学校にも立ち寄っていました。なのに見逃(みのが)したのかもしれない―。「親不孝者です。今でも、バスで青崎小付近を通るたびに車中で手を合わせます」

 被爆後の生活は、悲しむ間もなかったといいます。軍人だった父が赴任先(ふにんさき)の台湾から帰ってきたのは翌年秋。それまで、疎開(そかい)していて被爆を免(まぬが)れた12歳と8歳の妹の親代わりをしなければなりませんでした。

 毎朝5時に起きて妹の弁当を作りました。妹の担任との面談。生活費の工面。爆風で壊(こわ)れた家の修理―。学校に行けない日々が続きました。「今の中高生には考えられないでしょう。うれしかったことは一度もなかった」。生死すら分からなかった父が玄関先(げんかんさき)に現れた日、ただ抱(だ)きついて泣きじゃくりました。「子ども」に戻った瞬間(しゅんかん)でした。

 自分でできることは自分で。1人になっても生きていかなければならない―。生前の母から何度も説かれました。「料理もしっかり教えてくれていた。それが被爆後を生(い)き抜(ぬ)く力になった」と振(ふ)り返(かえ)ります。卒業後は銀行に入り、定年まで勤め上げました。

 これまでに乳がんを2回患(わずら)い、原爆の怖(こわ)さを痛感しました。8年前に夫が亡くなり、1人暮らし。それでも、いつも明るく元気ね、と周りから言われるそうです。「若い人も、どうか強く生きてほしいよ」。つらくても、生きることを諦(あきら)めない。自らの体験を重ね合わせながら語ります。

 現在、趣味(しゅみ)の川柳(せんりゅう)が生きがいです。「被爆死の母に見せたいビルの街」。復興した広島を一緒(いっしょ)に歩きたかった。尽(つ)きることのない母への思いを一句一句に込めています。(新谷枝里子)



◆私たち10代の感想

平和な世の中の大切さ

 稲生さんは被爆後、2人の妹のために弁当を作るなど、さまざまな家事をしていたと聞き、中2の私には絶対にできないと驚(おどろ)きました。原爆のせいで稲生さんのような思いをすることがない、平和な世の中がどれだけ大切であるかを知りました。「強く生きてほしい」と私たちを励(はげ)ましてくれた言葉は忘れられません。(中2・中川碧)

出会いに感謝 前向きに

 稲生さんは当時、妹の母代わりをすることに追われ、楽しいと思えることが全くなかったそうです。しかし今は川柳(せんりゅう)を趣味(しゅみ)とし、同窓会の仲間に恵(めぐ)まれ、充実(じゅうじつ)した生活を送っています。私も転校で大好きな友だち全員と別れ、本当につらかったことがありますが、新しい出会いに感謝し前向きに生きていきたいです。(中3・山田千秋)

あの日の心情聴きたい

 稲生さんは被爆直後、無数の死体が横たわる中を歩き回ったそうです。しかし家族の安否だけを気にしていたといいます。恐怖(きょうふ)心すら自覚できない状況(じょうきょう)に置かれるとは、当時の稲生さんと同世代の自分には想像もつきません。あの日の心情がどんなものだったか、被爆者一人一人からもっと聴きたいです。(高1・岩田壮)

◆編集部より
 いつも気丈だった母コイマさんですが、稲生さんは一度だけ泣いている姿を見たことがあります。妹2人を疎開先に送り出した直後でした。「家族が離ればなれになるなんて戦争は絶対にいけん」。戦後、疎開していた妹を呼び寄せ、どんなに大変でも3人で暮らしたのは、コイマさんのこの言葉が強く心に残っていたからです。

 一家を支えなければならなくなった、たった15歳の少女の心細さを思うと、胸が詰まります。当然、原爆を落とした米国を恨んだし、生きていく希望を失いそうになった時もあったそうです。でも、今の稲生さんは明るく、苦労してきたそぶりを見せません。

 「人間同士の憎しみ合いは何も生まないの。どうすれば世界が良くなるか、手を取り合って考えていかなきゃ」。稲生さんから、これからの世界を創っていく、全ての若者への願いです。(新谷)

(2014年4月28日朝刊掲載)

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