×

社説・コラム

今を読む 希望のアフガン広島研修

◆ナスリーン・アジミ 国連訓練調査研究所(ユニタール)特別顧問

 先日、私は大好きな芸術家の一人で、広島の象徴的な画家でシルクロードの案内人でもある平山郁夫の展覧会を鑑賞した。生涯において何度もアフガニスタンを訪問した彼は1968年、バーミヤン渓谷の洞穴に6世紀から存在する荘重な大石仏を描いた。が、その石仏は、2001年にタリバン政権によって破壊された。展示された立像の石仏と、破壊後の空洞を描いた作品には、古代から続くアフガニスタンの大地に、ここ数十年の歴史がもたらしたすべての苦難がにじみ出ているように見える。

 その国で4月初め、人々が暴力の脅威に屈することなく、歴史的な大統領選挙と地方議会選挙が実施された。今も開票が続いているが、選挙での不正行為やさらなる暴力の懸念がなくなったわけではない。しかし、3人の有力大統領候補は、いずれも尊敬すべき人たちである。2人は医師で、もう1人は元学者で世界銀行理事も務めた。3人はそれぞれの仕事で立派な業績を残しており、希望が持てる。

 日本には、アフガニスタンの平和的な政治転換を願う多くの理由がある。米国に次ぐ2番目の支援国家であり、2002年以来、約50億ドルの開発援助を行ってきた。日本の企業はまだ進出していないが、活気に満ちた将来のアフガン市場は魅力的である。アフガニスタンの国土は日本の約2倍。人口は4分の1だが、25歳以下が65%を占める。日本の投資と専門性は、インフラ整備、農業、鉱業、保健衛生、教育などほとんどすべての分野で役立つだろう。

 さらに重要なことは、アフガニスタンの人々が、日本を大変称賛していることだ。彼らは日本を、政治的にも文化的にも、欧米のほとんどの同盟国よりもはるかに好意的に見ている。

 私にとっての協力は(そして、その協力は将来のパートナーシップのモデルになると私は信じているのだが)、広島県の支援を得て、国連訓練調査研究所(ユニタール)が2003年から実施している人材育成事業の取り組みである。そのルーツは、ユニタール広島事務所開設に当たって、私たちが2001年にカリキュラムをつくる作業の中で生み出された。私たちは、被爆地広島の体験を他の戦争被災国に伝える意義を深く理解していた。それ故に米国主導の占領が野蛮なタリバン政権を倒したとき、私たちは小さな調査チームをつくり、アフガニスタンの崩壊した市民サービス機能の中で何が最も必要な訓練であるかを知るためにカブールへ向かい、広島から何ができるかを探った。

 調査団のすべてのメンバーは、アフガニスタンについて馴染みがあった。私の場合は、1960年代にこの国を訪問した子ども時代の記憶があった。しかし、私たちが目撃した破壊の実態はあまりにもショックなものであった。街路樹が並ぶ通りや、澄み渡ったカブールの青空といった私の記憶とは違い、そこにあるのは、30年におよぶ戦争と放置、弾痕の跡も生々しい建物、辺りに漂う恐怖と抑圧の消えることのない空気―といった、心のふさぐ現実であった。

 私たちは多くの大臣や公務員、学者、ビジネスマン、国連スタッフ、非政府組織(NGO)の現場責任者、各国大使らにインタビューした。そして、安全な地の安全な事務所で私たちが描いた最初の楽観的な計画は、不適切であることがすぐに判明した。アフガニスタンの現実に即した、より柔軟な施策こそ必要であった。

 そこから生まれた事業が、国の中核を担う政府関係者を対象に、1年間のサイクルで指導研修を行う「アフガニスタンのための広島研修」であった。核となる研修には、プロジェクトの考案と管理、報告書作成と資金集め、経理と予算編成、チームやネットワークづくりまで含まれている。各サイクルには、現地研修のほか、インターネットを使った遠距離の学習機会も設けている。そしてすべてのチームには、アフガニスタン内外の熱心なボランティアの助言者たちが割り当てられる。国を構成するハザラ人、パシュトゥーン人、タジク人、老若男女が一緒に働くことが義務づけられる。どのサイクルも、締めくくりは広島でのワークショップと会議が組み込まれた。

 広島研修は、受け入れ側の私たちの国際開発援助に対する見方を変えた。この研修を通しての大切な指針とは何だろうか?

 第1に、被爆地としての広島がもつ象徴的な意義である。私は、世界平和や核兵器廃絶を願う広島がよって立つ道徳的な立場や、廃虚から復興した街並みに、アフガニスタン人ほど目に見えて影響を受けているグループを見たことがない。原爆資料館の見学後や被爆者の証言を聴いた後で、彼らがよく口にする言葉がある。「もし広島が復興できたのなら、アフガニスタンだってできる」と。憎しみよりも復興を優先し、「許しても忘れない」という広島市民の努力と精神は、過去の憎しみに長くとらわれた国にとって、計り知れない意味を有しているのである。

 第2に、研修の中核となるユニタールのチームは、実に多様性に富んでいることである。パキスタンとカザフスタンの2人の素晴らしい女性は、初期のコーディネーターとして関わった。これまでにロシア人やウクライナ人、日本人、アフガニスタン人、アルゼンチン人、フィリピン人、そして2人のニュージーランド人が一緒に仕事をした。イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、ダリ語やパシュトゥーン語を話す者もいた。

 講師たちの素晴らしいネットワークには、米国人やカナダ人、シンガポール人、日本人、イラン人、パキスタン人、インド人が加わった。彼らは無報酬で、しかも長期にわたって、研修生が身につけなければならない不可欠な知識と技能を伝授するため、トップクラスの大学や国際組織、さらにはマイクロソフトのような企業からも研修に駆け付けてくれた。彼らがなぜ、参加してくれたのか? 最初は講師たちが、広島とアフガニスタンの間の切実な関係性を見いだしたからであり、後には彼ら自身が研修生たちの向学心と変革を求めようとする熱意に心動かされてのことである。

 第3に、広島研修は財政上の制約から質素に行われてきたが、そのことが持続性につながった。控えめなペースを保ったアプローチこそ、ほとんどすべてを失った国と協働する上で、不可欠な要素であったことが証明された。私たちは何年にもわたって、アフガニスタンに何百万ドルもの資金を提供した寄付者主導の鳴り物入りの再建プログラムを見てきたが、次から次へと消えていった。私たちの研修では、ひたすら「人づくり」という礎を築くことに専念してきた。私たちの財政的資源は限られているが、主要な寄付者は長期的視野に立っている。私はそのことに感謝したい。現物支給による支援や多くのパートナーの組織的な関与にも助けられている。こうした支援があるからこそ、広島研修を今後も前進させることができるのである。

 第4に、かなり早い段階から、アフガニスタン人自身が、研修計画の立案チームの一員になったことである。最初は決してたやすいことではなかった。しかし、彼らの成功への知的関与と個人的な責任が、研修をよりダイナミックなものに変えた。もはや私たちは、与える者と与えられる者との関係ではなく、学び合う一つの共同体の一部であった。広島研修はささやかながら、国際支援で構築するのが難しいとされる、参加者自身が自分たちの国の事業であるとの認識を抱くようになったことである。それは、「平等に機会を与えられたなら、だれもが素晴らしいものを切望する」という、私の信念を証明することでもあった。

 最後に、私たちはアフガン訪問が可能なときはいつでも出かけ、その国の現実を忘れないように努めてきたことである。平和な広島からだと、研修生たちがどれほど困難な状況下で働いているかを想像するのは困難である。政治的混乱の中での政府機関などの再建、爆弾の脅威、暗殺、限られた資源や崩壊するインフラ…。困難に立ち向かう彼らの粘り強さは印象的である。

 広島でのあるワークショップで、1人の研修生がカブールへ戻る数日前に緊急入院し、盲腸の手術を受けた。彼の状態が心配だと私が言うと、グループ内の医師である1人の研修生が、ほほえみながら私に想起させてくれた。彼らは戦争中、アフガニスタンにそびえるヒンドゥークシ山脈を駆け巡りながら手術をしなければならなかったことを。

 国連事務総長特別代表としてバグダッドに赴任中の2003年8月、国連事務所爆破テロの犠牲となった私の友人、故セルジオ・ビエラ・デメロ氏は、国連の仕事について実利主義は必要な要素だが、理想主義を犠牲にしたものであってはならない、とよく言ったものである。アフガニスタンの研修生たちは、彼らの知性、ユーモア、もてなしの心、あらゆる機会をとらえての歌や詩の朗読、威厳と温かさによって、私たちの琴線に触れた。私たちの絆は、何年にもわたって続いている。決して哀れみや同情からではなく、彼らが置かれた状況は容易に私たちの状況にもなり得るとの、同じ人間としての共感から生まれている。

 広島研修は今も継続している。ユニタールの私の後継者たちは、継続のために力を注いでくれており、これまでにおおよそ450人の中核となる政府関係者の研修が終了した。ほかにも、学者やNGO関係者が研修を受けている。研修生たちの間には、同窓の強いネットワークができている。各省庁は、同じ省のスタッフが研修生に選ばれるよう授業料の面倒を見るなど、互いに競争しているのである。

 私は、多くの政府省庁から数百人の専門職員が広島研修を終了したからといって、アフガニスタンの問題が解決したとは思っていない。だが、私には確信を持って言えることがある。すなわち、アフガニスタンには才能を有したプロフェッショナルな人材が多くいるということである。少しでも政治的安定が回復すれば、彼らは自国を変革することができるだろう。

 平山画伯と同じように、私たちの多くは、長年にわたり違ったアフガニスタンの可能性を見ようとしてきた―豊かな文化的遺産にふさわしい平和と繁栄の地として。それ故に、世界中の広島研修に関わる人たちもまた、アフガニスタンの平和的な政治の移行を陰ながら応援して来たのである。やがて平和が訪れたとき、私たちは研修生らとともに、かの地に平和の庭園を築きたいと願っている。その庭園の中心には、広島の原爆投下を生き延びた被爆樹木たちが育っているのである。

ナスリーン・アジミ
 1959年イラン生まれ。17歳の時にスイスへ移住。86年ジュネーブの国際問題研究所で国際関係学修士号、98年にはジュネーブ大建築研究所で修士号 を取得。88年からジュネーブのユニタール本部に勤務。同ニューヨーク事務所長などを歴任し、2003年初代の広島事務所長に就任。09年に退任後、ユニタール特別顧問に。11年から被爆樹木の種や苗を世界各地に送る活動に取り組む。ニューヨーク・タイムズなど米紙に被爆地広島の平和への取り組みやフクシマの問題について寄稿。広島市中区在住。

(2014年5月13日朝刊掲載)

年別アーカイブ