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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <4> カメラとの出会い

納屋の暗室 現像に熱中

 初めてカメラに触れたのは、島根県木部村(現津和野町)の木部中2年のころ。斎藤薫という写真が趣味の若い先生がいた。学校で、斎藤先生の蛇腹のカメラのシャッターを面白半分に押させてもらいました。

 斎藤先生の下宿は、うちの近所の商店。雨戸を閉めて部屋を暗くする「お座敷暗室」によく遊びに行きました。現像液の中から画像が徐々に浮かび上がると、先生が「おい、できたぞ」ってね。不思議だな、と関心を持ったのが始まりです。

 当時、カメラは高価だった

 村の収入役だった父は、田舎では珍しいサラリーマン。現金収入があったので生活は余裕がありました。「カメラを買って」とねだると、三田尻(防府市)のカメラ店で蛇腹のカメラを買ってくれたんです。メーカーは国産の「ペトリ」じゃなかったかな。6×4・5センチのセミ判だったと覚えています。牛小屋の隣の納屋に暗室を作りました。脱穀したもみ殻が暗室に飛んでこないように、仕切り板も手作りしました。

 ある日、父から依頼を受ける

 「中学校の運動会の写真を撮れ」と言うんです。おやじは写真に関心がない。「現像はしなくていい」「誰と誰が写っとればええなあ」と聞いて、不思議に思ったね。撮影済みのフィルムをどこで現像したか、後になって聞きました。警察署の暗室でした。

 共産党村政の余韻が残っていた時期。共産党シンパの村民の顔写真を警察は求めていたのでしょう。高性能の望遠レンズがある時代じゃない。怪しまれずに撮影するには、子どもが適役だったんでしょうね。当時を思い返すと、カメラを向けた何人かに顔を背けられた気がします。

 1952年に津和野高へ進学。柔道に熱中する

 ひょろっとしていたので、体を鍛えたかったんです。お稲成(いなり)さん(太皷谷(たいこだに)稲成神社)の石段のうさぎ跳びがきつかったな。写真部の部室にも出入りしていましたが、興味の中心は柔道。同級生のスナップを撮ったこともありますが、写真が生涯の仕事になるとは想像もしていませんでした。

(2014年5月16日朝刊掲載)

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