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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <5> 上京

「意思を表現」写真学校へ

 津和野高を卒業後、実家で農業を手伝いました。夏休みになると、東京の大学から同級生が帰省する。会って話すと、都会がうらやましくなるんです。そんなころ、おやじが「大学に行くなら農業土木がいい。町役場に技師で就職できる。学費も出してやる」と勧めました。父の意見に従って、進学先を決めました。

 東京農業大では農業工学科に進んだ

 大学の勉強は測量と製図が中心。特に製図が得意でね。くねくね曲がった等高線をすーっと引くと、教授が「美しい」と褒めてくれました。

 世田谷の下宿では、鉙川(かんながわ)明という津和野高の先輩と1年ほど共同生活しました。彼は演劇志望の文学青年。「脚本を書け」という彼に、「芝居なんて架空の世界だ」なんてかみついたりね。数値に沿った測量図を引く人生よりも、自分の意思を表現できる仕事がいいなと思い、カメラを再び手に取るようになったのは、彼の影響です。

 大学3年生だった1958年。ふらりと訪れた銀座の写真展会場で人生の方向が変わる

 東京フォトスクール(現東京綜合写真専門学校)の開校を知らせるポスターがありました。入学金2千円。授業料は月3千円。小遣いで何とかなると思い、58年9月、東中野にあったフォトスクールの夜間部に1期生として入りました。

 同期生は約100人。リアリズム、ファッション、前衛…。写真評論家で10歳年上の重森弘淹(こうえん)さんが、写真の理論や歴史を徹底的に教えてくれました。撮影技法は教えない。でも、発想は大きく飛躍しました。

 世界恐慌後の米国での「ニューディール政策」による農村の復興を記録した写真群に感銘を受ける

 女性写真家のドロシア・ラングが撮影した貧しい出稼ぎ労働者の写真を見て「伝達手段の一つである写真が歴史になる。ドキュメントこそ写真の王道だ」と直感しました。

 有名な写真家の助手になるか、新聞社に就職するしか報道写真の道はないとされる時代でした。涼しい顔で「徒弟制度は終わったよ」と言う重森さんが、着眼点の鋭さと粘り強さで勝負するフリーの報道写真家という道を開いてくれたんです。

(2014年6月3日朝刊掲載)

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