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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <9> 初の海外取材

緊迫の韓国 竹島も撮影

  水俣病をテーマに報道写真家としてデビュー。次の題材を東西冷戦下の分断国家、韓国に定める

 問題意識を持ったのは大学生のころ。同級生に朴正圭(パクチョンギュ)という韓国人がいました。朝鮮戦争当時、戦火を逃れて来日したと聞きました。韓国との国交回復前で、彼は故郷に戻れない。下宿で酒を飲むと、アリランやトラジといった民謡を歌ってくれる。哀愁を感じたものです。

  初の訪韓は1964年7月。国交正常化交渉が大詰めになり、65年6月に日韓基本条約が締結された

 65年になると条約締結に反対する学生運動が盛んになりました。朴正熙(パクチョンヒ)政権が市民を弾圧し、ソウル市街に催涙弾が飛び交いました。夜間外出禁止令も出て、首都は緊張状態でした。「植民地支配の負の歴史を、金と引き換えに清算するのか」という反発を至る所で聞き、「日本人は嫌いだ」と撮影拒否にも遭いました。

  雑誌「太陽」と「週刊朝日」の取材費を得て、65年の滞在は9カ月に及んだ

 朴珍錫(パクチンソ)さんという助手を現地で雇いましたが、海兵隊出身の豪快な人でした。訪韓前、週刊朝日の編集部で「竹島(韓国名・独島(トクト)、島根県隠岐の島町)を撮影できたら、特ダネだぞ」という話になりました。日本の他社が撮影を狙っているといううわさを聞いて焦っていると、朴さんは「任せとけ」と言うんです。

 しばらくすると、朴さんから「飛行機をチャーターした。すぐ、釜山に来い」と連絡がありました。警察のセスナの試験飛行に内緒で便乗したんです。操縦士と整備士と朴さんと4人で乗り込みました。

 日本海の白波の向こうに島影が見える。操縦士が「カメラを構えろ。1回しか旋回しないぞ」と叫ぶんです。結局、3回ほど旋回して、約70カット撮りました。当時の竹島には、韓国の建物はまだ少なかった。最近の竹島は、韓国の要塞(ようさい)のようになっている。日本の外務省のホームページや小冊子には、当時の写真が使われています。

 帰りのフライトは、まさかの燃料切れ。農道に不時着し、携行缶の燃料に助けられました。

(2014年5月23日朝刊掲載)

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