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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <10> 韓国のベトナム派兵

無言の帰国 非情な戦争

 1965年は韓国戦後史の節目となる年だった

 米国が介入したベトナム戦争に、韓国軍の本格派遣が始まります。「釜山から海兵隊が出発する」と米国CBSテレビの韓国人記者から聞いたのは10月1日。軍港に入る軍用列車を撮影しました。

 海兵隊員の家族が、泣きながら列車の中の肉親を捜していました。望遠レンズで撮っていると、何者かがレンズをつかみ、視野が遮られた。公安に見つかったんです。

 「フィルムをよこせ」と詰め寄られました。連行される間に撮影済みのフィルムをこっそり巻き戻して、新品に詰め替えたんです。事務所に着いたら、何も写っていないフィルムをわざとらしく感光させました。

 ベトナム戦争は泥沼化しており、多くの兵士が戦死した

 釜山で騒動を起こした直後、ソウルであった陸軍の結団式は撮影許可が出ました。釜山軍港と同じ、家族との涙の別れがありました。

 11月には「無言の帰国」が始まります。ベトナムに送られる兵士と僕は同世代。国軍墓地の取材では、ぶれるはずのないシャッタースピードなのに、写真が手ぶれしていた。心が震えていたのでしょう。戦争は非情なものだと痛感し、後のベトナム取材の重要な動機になります。

 雑誌「太陽」と「週刊朝日」で発表した韓国の写真が65年の講談社写真賞に選ばれた

 当局は「韓国の負の側面を強調する日本のメディアは非協力的だ」とにらんでいました。何度かの帰国を挟んで、韓国滞在が9カ月目に入った12月、警察に呼ばれます。取材費確保のために余ったフィルムを売ったことが、関税法違反に問われたのです。入国禁止処分を受け、国外退去を迫られました。

 韓国取材を再開した68年、妻となる崔和子(チェファジャ)さんとソウルで出会う

 韓国外国語大の日本語学科を卒業した妻は、自動車メーカーの通訳でした。経済復興の取材で知り合い、70年に結婚します。当時は、韓国からベトナムに取材の軸足を移した時期。すぐに2人の息子が生まれましたが、大変な苦労を掛けました。

(2014年5月24日朝刊掲載)

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