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爆心地周辺 奪われた生活 今でもみんな生きていると思っている 旧中島本町の住民語る 広島市中区

 原爆の爆心地周辺で焦土と化し、現在の平和記念公園(広島市中区)に位置していた旧中島本町の被爆前の様子を学ぶ集いが27日、公園内の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館であった。約100人を前に、元住民3人がかつての繁華街の暮らしぶりを語った。(加納亜弥)

 生家が爆心地から200メートルの理髪店で、原爆投下当時11歳だった浜井徳三さん(80)=廿日市市=は「近所のビリヤードや映画館によく行った」。自身は縁故疎開で助かるが、原爆で両親と姉、兄を失う。それでも「今でもみんな生きていると思っている。中島本町は今も大好きな町」と話した。

 1945年4月に海軍兵学校(当時江田島町)に入学した高橋久さん(85)=西区=の実家は写真館で、両親と弟が犠牲に。「夏になれば川に飛び込んだ。足を踏み込めばすぐにシジミが採れた」と記憶をたぐった。44年暮れまで実家が化粧品店を営んでいた緒方昭三さん(85)=中区=は、高橋さんと中島尋常高等小の同級生。当時販売していた練り歯磨き粉や粉石けんの復刻版を紹介した。

 爆心直下の街を歩く市民団体「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」の主催。西区出身の漫画家こうの史代さんが原作を手掛け、被爆70年の公開を目指すアニメ映画「この世界の片隅に」に戦前の中島本町が登場することから企画した。

(2014年7月28日朝刊掲載)

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