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母とともに 動き始めた胎内被爆者 <上> 葛藤 今語る 秘めた悲しみ 

 胎内被爆者が8月5日、広島市中区で全国連絡会を発足させる。あの日の記憶はなく、「被爆者」を名乗るのにためらう人もいる。それでも参加するのは、ともに原爆に遭い、戦後を生きてきた母親の体験を後世に伝えたいから。動き始めた最も若い被爆者の心模様を追う。

 在りし日の母はあの日の記憶を一切、語らなかった。よく働き、わが子の前で弱音一つ吐かなかった。そんな母を悲しませたくなくて、子どもたちもまた、何も尋ねなかった―。

 広島市東区の胎内被爆者の二川一彦さん(68)は、自宅の窓辺に並べた母の遺影を見つめ振り返った。「原爆はいつしか、家族のタブーになっていた」

親戚づてに聞く

 69年前。一彦さんを身ごもっていた母広子さんは、原爆で家族2人を一度に失った。32歳だった。夫の一衛さん=当時(47)=は、今の平和記念公園(中区)にあった材木町郵便局の局長。8月6日朝、職場へ向かった。広島女子高等師範学校付属山中高等女学校1年の長女、幸子さん=同(13)=は雑魚場町(現中区)での建物疎開作業に動員されていた。

 自宅があったのは爆心地から東3・8キロの矢賀町(東区)。それでも窓ガラスは割れ、屋根も飛ばされた。広子さんは翌7日から連日、2人を捜しに爆心地付近へ入った。大八車を押して歩き回り、重傷者が運ばれた似島(南区)にも渡ったが、遺骨さえ見つからなかった。

 翌年4月に生まれた一彦さんは、こうした話を全て親戚たちに聞いた。「母も地獄を見たに違いない。でも胸に閉じ込めたようで」

 広子さんは戦後、つてを頼りに郊外の郵便局へ勤め、残された3男2女を養った。きょうだいも原爆の話には触れなかった。一彦さんに被爆者の意識が芽生えたのは、東京の大学に進んでから。被爆地出身と知ると、相手が見せる反応に「偏見」が透けた。自然と、口をつぐむようになった。

父と姉を「供養」

 一彦さんが半生で1度だけ、被爆者を公言したことがある。被爆35年の1980年、近所の人に頼み込まれ、市の平和記念式典で遺族代表として「平和の鐘」を突いた。当時34歳。会うことのなかった父と姉を「ようやく供養できた」と心が和らぐのを感じたという。ただ半年後に結婚すると、営む広告代理店の仕事も忙しく、被爆者との意識に再び、ふたをしてきた。

 その心が動き始めたのは2000年、広子さんを87歳でみとってからだ。遺品のたんすの底から、きれいにたたまれた小さなブラウスが出てきた。胸元には「附属高女 二川」の名札。母は、原爆に奪われた娘の着替えを保管していた。何も語らず、ひたすらに内に秘めていた悲しみの深さに、胸を突かれた。

 母を追うように05年に次兄、09年に長兄が逝った。「被爆者は老いを深めている。このまま黙ったままでいいのかと思うようになった」。胎内被爆者の全国連絡会ができることを昨年秋、新聞記事で知った。

 今は県外に暮らす息子が3人、孫も2人いる。「被爆者として語り始めれば、子や孫に迷惑がかかる」と影響を案じる妻と、会に参加するかどうか、何度も話したという。でも迷いは振り切った。「こうして、子や孫の代まで苦しめる原爆はもういらない。何より、母はこんな生き方を強いられたのだと語っておきたい」(田中美千子)

(2014年7月29日朝刊掲載)

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