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連載・特集

岩国の空襲69年 <上> 学徒動員 燃料廠 

命奪われた16歳 「不戦守ってほしい」

 「戦争は何の罪もない若者の命を奪ってしまった」。当時16歳だった河野早苗さん(86)=岩国市岩国=は1945年5月10日、和木町と岩国市にまたがる三井化学岩国大竹工場の区域にあった旧岩国陸軍燃料廠(しょう)に動員中、米軍の空襲で同級生を亡くした。

 45年に入り、燃料廠への動員が始まった。河野さんは旧制岩国中(現岩国高)の4年生。健康状態により光海軍工廠に動員されなかった河野さんたち「残留組」の数十人が志願した。「みんなで『何か役に立ちたい』と話し合った。事務のような仕事なら手伝えるということになった」と振り返る。

 爆撃が始まったのは5月10日午前9時48分。河野さんは燃料廠の試験部門の部屋にいた。急いで防空壕(ごう)へ飛び込み、目と耳を押さえ、姿勢を低くした。爆弾が爆発するたびに壕が揺れ、奥からは女性工員の泣き声も聞こえた。

 爆弾の投下は約30分続いた。周囲は廃虚となり、黒煙が空を覆っていた。近くの和木国民学校(現和木小)に避難すると、同級生の陶山祐男君=当時(16)=の姿がなかった。何時だったか、燃料廠に戻ると、正門近くで他の遺体とともに横たわる陶山君を見つけた。

 45年6月6日付の中国新聞が陶山君の死を報じている。「情報係として勤務中至近弾のため生埋(いきうめ)となり、暗号書を抱いて脱出を企てたがおよばず…」  燃料廠の死者は300人以上。うち動員学徒は陶山君のほか、岩国高等女学校(現岩国高)11人、安下庄中(現周防大島高)9人だったとされる。

 戦後、宇部工業専門学校(現山口大工学部)を卒業し、岩国市職員になった河野さん。学徒動員で空襲などの犠牲になった友の慰霊碑を72年、同窓生たちと岩国高に建てた。

 最近、その碑を複雑な気持ちで見つめる。集団的自衛権の行使容認が7月、閣議決定され、戦争への道が再び開かれかねないと懸念するからだ。「若い世代には碑に込めた『不戦の誓い』を守ってほしい」と訴える。

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 岩国駅周辺の空襲から14日で69年。多数の死者を出した5月10日の旧岩国陸軍燃料廠、8月9日の旧岩国海軍航空隊への空襲とともに、体験者から当時の惨状と平和への思いを聞いた。(増田咲子)

(2014年8月12日朝刊掲載)

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