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元動員学徒 急ぐ政治憂う 自衛権、原発 よぎる不安

 平和記念式典が終了した後、公園内の別の場所でもう一つの慰霊祭が営まれた。原爆の犠牲になった動員学徒の追悼式。広島市内では二万七千人の学生が招集され、七千人近くが核によって若い命を奪われた。「何の罪もない学生が死ぬことはないように」。青春を奪われながら戦後を生き抜いた被爆者らは、国民の根強い反対を押し切って集団的自衛権の行使容認や原発再稼働に突き進む政治の現状を憂えた。(社会部・中崎裕)

 広島市安佐南区の寺前妙子さん(84)は、不安な心持ちで追悼式の席に座っていた。「最近の首相を見ていると、あんなことが起きないかと心配になる」。原爆で亡くなった妹の恵美子さん=当時(13)=を思い浮かべ、「安らかに眠れる世の中かなぁ」と問いかけた。

 六十九年前の八月六日早朝。学徒動員で市中心部の電話局で働く妙子さんは、恵美子さんと「今日も早く帰ろうね」と話して家を出た。電話交換業務の休憩を終えて廊下に整列していた午前八時十五分、窓の外に光の球が落ちてくるのが見えた。友人と「あれは何ね?」と話した瞬間、ピカッと光り、気付くと倒れていた。「外にいた人は全員黒焦げだった」

 陸軍施設のあった広島市沖の金輪島に避難して五日後、迎えに来た父から恵美子さんの死を伝えられた。看護師になりたいと、県立広島第一高等女学校に入学して四カ月。恵美子さんは燃え盛る火の手を防ぐため建物を壊す作業に屋外で当たっていた。「妹はあこがれの学校に入ったのに、勉強もできなかったんです」

 妙子さんも左目を失い、顔に十字の大きな傷を負った。弟たちに「おばけになった」と言われ、女性として苦悩する日々。国の支援はなく、十二年後に救済を求める動員学徒犠牲者の会をつくった。動員される際、「手厚く救済される」という言葉はうそだった。

 怒りから、式典にいまだ出られない被爆者もいる。広島県府中町の元音楽教師、江種祐司さん(86)は「戦争の非道さや国の対応への反発が腹の中をうずまいている」と話す。

 当時は広島師範学校本科二年の十七歳。学徒戦時動員体制が閣議決定され、好きだった音楽や美術の時間は真っ先に軍の手伝いの時間に変わった。「オペラが好きだったのに、歌えるのは押しつけられた軍歌だけだった」

 六十九年たち「そういう時代がまた来ている」と思う。「あの時だって『国民の生命と財産を守る』と言って戦争を始めた」。経済的な理由などを並べ、原発再稼働を急ぐ政府や電力業界の姿勢もそう。「あれは原爆発電所だ。世界一厳しいと言ってそんな証明はできていないのに」

 被爆地・広島で、こう心配している。「日本は世界でいちばん早く放射線で破滅する民族になるんじゃないか」

(中日新聞8月6日夕刊1面掲載)

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