×

未分類

<戦後69年 平和を考える>(5)日本被団協代表委員 坪井直さん(89)

諦めず原爆の実態伝える 行使容認なら国民に問え

 安倍政権は集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。69年前の原爆投下で被爆し、今も原爆症で苦しむ被爆者たちの間で、懸念が高まっている。

 憲法9条というのはあらゆる戦争を放棄している。行使を容認するなら9条改正を国民に問い、国民投票するのが筋だ。閣議決定は許されることではない。(自民、公明の)2党だけで決めている。自分たちだけの考えで物事を進めるのは間違い。それで国民の憲法と言えるのか。

 自衛権は武力だけではない。外交や文化の力など、いろいろあるはずだ。

 1945年8月6日午前8時15分、通学途中、広島の爆心地から1・2キロで被爆。全身やけどを負い、20歳で死のふちをさまよった。

 朝8時ごろ、食堂で朝ご飯を食べて外に出ようとした時、後輩3人に会った。

「先輩もう一度食べましょう」と言われたが、「学校で昼また会おう」と別れた。原爆投下で、その3人は死んだ。

 私は両腕が黒焦げになり、顔面もやけどし、耳がちぎれた。10~15分後に、背中が痛いと気付き、着ていたシャツを脱ぐと、燃えていた。痛みの感覚が鈍くなっていた。

 御幸(みゆき)橋という所までたどり着いたが、そこで動けなくなった。死を覚悟し、石を拾って「坪井はここに死す」と地面に書いた。諦めかけたが、警防団の人が軍のトラックに乗せてくれた。

 広島市沖に浮かぶ似島(にのしま)の臨時野戦病院から自宅に運ばれたが、9月25日まで意識が戻らなかった。

 気が付いて母から終戦を知らされると、「神の国が負けるか」「戦場に連れて行ってくれ」と食ってかかった。当時は軍国教育を受けていた。人を殺して手柄という教育はばかげている。教育を間違えば本当に恐ろしい。

 それから畳の上をはえるようになるまで1年かかった。

 その後も12回入退院を繰り返し、3回は危篤になった。造血機能障害もあり、現在も定期的な点滴が欠かせず、がんも二つ抱えている。

 被爆者は昨年度に初めて20万人を切り、日本は戦争を知らない世代が多くなった。

 被爆者の中には、高齢で動けない人もいる。満足に動ける被爆者は公表されている数字より少ない。

 しかし最後まで諦めず、原爆の実態を多くの人に語っていかなければならない。生きている限り、どんなことがあっても諦めない。

 今こそ、平和を守るために、被爆者だけではなく、戦争を知っている人が国民に語っていかなければならない。近所の人でもいい。何かの時に、その次の人に伝えられるように、われわれが一生懸命やらないといけない。

 私は多くの人に助けてもらい、今生きていられる。その恩返しのためにも頑張らないといけない。

 被爆者は苦しくても、諦めずに生きている。若い人たちも、何事にもすぐに諦めないでほしい。(聞き手・斉藤正志)

▽つぼい・すなお
 1925年、広島県音戸町(現呉市)生まれ。中学校長を経て2000年に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員、04年から広島県原爆被害者団体協議会理事長も務める。

(神戸新聞8月19日朝刊社会面掲載)

年別アーカイブ