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段原中 つなぐ被爆の記憶 今春移転の校舎外壁保存へ

■編集委員 西本雅実

 授業で「被爆教室」が今も唯一使われている広島市南区の段原中(立畑薫校長、431人)が、段原東部地区再開発で今春移転するのに伴い、被爆した校舎の外壁部分と正門の門柱が保存され、跡地の公園に設置される。1月に開く予定の市の被爆建物等保存・継承検討会議で正式に決定する。前身の第一国民学校の被爆と現在の3年生を含め卒業生が延べ2万900人を数える「段中」の歩みを創立の地に刻む。

 被爆した東校舎は1932年の第一高等小(1940年に国民学校に改称)の開校時に鉄筋平屋でできた。床面積は1342平方メートル。1945年8月6日の原爆投下では爆心地から南東2.6キロに当たったが倒壊を免れ、臨時救護所となった。

 段原中は1947年創立。比治山東側の段原地区は大破を免れた家屋が残り、南の霞地区に県庁が移ったため広島復興の拠点となり、生徒は最多時2千人近くをみた。東校舎は56年に2階を増築。1階は補修工事を重ね、木工室や製図室などに今も使われている。

 一方、学校は、1971年に決定された段原土地区画整理事業(74.5ヘクタールのうち西部地区48ヘクタールは2006年に完了)が大幅にずれこんだのと、市が1992年に学校の移転先とした南区霞の県警察学校(2009年に坂町へ移転)の買い取り価格をめぐり調整がなかなかつかず、校舎や施設の老朽化が進んでいた。

 現在の段原山崎町から霞への4月移転と校舎解体を控え、市教委は各部局と協議。被爆した1階のうち東側の外壁部分を高さ約1メートル、幅数メートルで切り取り保存。校名を埋めた門柱(高さ約1.8メートル)とともに、跡地に12年度整備される公園(約2千平方メートル)に設置する計画を固めた。

 立畑校長は「校名は移転しても段原中であり、新たに予定される学区からの生徒にも地域に根差した学校の歴史を伝え、発展に努めたい」と話している。

 市が登録する被爆建物は、東校舎の解体で89件(公共所有20件、民間69件)となる。

プロ野球最多安打記録保持者で段原中を1956年に卒業した張本勲さんの話 

歴史知る場に

私にとって一番の青春が段中時代です。OBとしては移転は寂しいが、グラウンドが公園となり校舎の一部などが残るのは、段中がゆかりの地で続くこと。段原地区の被爆とそこからの復興、発展を知る場所になってほしい。

(2011年1月4日朝刊掲載)

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